解説「王のための四十のドーハー」第五回(4)
ちょっと話がずれるけども、昔、ある生徒さんがね、その人は絵画的なことをやってるんだけども、その人が、「芸術というのは、自分のセンスを表現するものではなくて、いかに神の世界を表現するかじゃないですかねえ」ってわたしに言ってきたことがあって。おお、そのとおりだと、いやあ、あなたは素晴らしいことに気付いた、ってわたしは言ったんだけど。わたしもそう思うんだね。本来の芸術はですよ。もちろんいろんなタイプがあってもいいと思うけど、本来の芸術っていうのはやっぱり――例えばさ、いろんな意味での芸術表現があるよね。例えば自分の中にある屈折を表現したりとか、あるいは自分の中にあるさまざまな思いを表現したりとか。まあ、それはそれでいいのかもしれないけど、でも本来の芸術っていうのは、もうちょっと深いところにある。つまり普遍的な悟りの心であるとか、普遍的な、神がわれわれに与えてくれるものであるとか、あるいは内側から湧き起こる普遍的なメッセージみたいなものを、できるだけ純粋に表現する。だからこれはバクティヨーガに非常に近いっていうか。ここにおいて芸術家のエゴが入れば入るほど、芸術は不純性を増すわけだね。「おれの芸術」とか言ってるやつほど、それはちょっと遠のくっていうかな。だからまさにバクティヨーガ的に、芸術家自身は、ただの道具になんなきゃいけない。だからまさに絵を描くときの筆みたいに。筆は道具だけども、筆を描いてる、このこれ(自分自身)も筆になるんです。神の手に委ねられた筆みたいにして絵を描かないと、ほんとの芸術っていうかな――は現われないっていうか。
だから踊りとか歌とかもそうだね。こういう踊りを覚えました、どうでしょう、見てくださいと。こんなに速く回れるんですと。そういう世界ではなくて(笑)、心の奥から湧き起こる――もちろんその前提として、心の奥のその一番純粋なところにアクセスしてなきゃいけないけど、アクセスして、アクセスして湧き起こってくるエネルギーを、踊りとか歌で表現するわけだね。それがまあ、本来の芸術なのかもしれない。
だからそういうタイプの聖者っているんだね。クリシュナの化身ともいわれるチャイタニヤっていう聖者もそういうタイプだったっていわれるけどね。悟りを得て、インド中を歌って踊って回ったと。だからそういう、悟りの表現なんですね。だからそのような境地、これを特にこの――話を戻すけども、マハームドラーとか、あるいはゾクチェンであるとかそういった、インド密教あるいはチベット密教系の高度な修行ではすごく、まあ重要視するんだね。心の奥底から湧き起こる純粋な悟りのエネルギーね。
ちょっとまた話が広がるけども、前にも何回か言ったけども、わたしも自分の瞑想経験で――ちょっとね、端的な言い方をするけどね。あらゆる感情的、あるいは肉体的エネルギーっていうのは、その原初的な状態っていうのは、ものすごい歓喜と純粋性を含んでるんです。歓喜であり純粋なんです。今何を言ってるのかっていうと、分かりやすく言いますよ、分かりやすく言うと――例えば怒り。「あいつめ、くそー! なんてやつだ! 殺してやるぞ!」――これははっきり言って邪悪だよね。でも、この邪悪さの、なんていうか表面的な、例えば「あいつめ」とか「こうしてやる」――それは全部、あとから乗っけられた概念なんです。その概念をじゃあ全部取っ払っていったら何が残るんですか?――そこにはただ純粋な歓喜だけがあるんです。で、これは、あらゆる感情がそうなんです。それは愛もそうだし、怒りも、悲しみも、実は全部そうなんです。これは密教的なすごい秘儀なんだね。普通はなかなか理解できない。これは経験するしかないんです。
これはわたしも何度も経験してて――何回か言ったけどね、もう一回言うと、初めて経験したときに、どういう経験だったかっていうと、ある出来事があって、すごい悲しかったんです。ものすごく悲しかった。うう……ってこう打ちひしがれるように悲しかった。で、自分を観察するとね、皆さんもそうだと思うけど、そのようなすごい感情に自分が襲われてるときって、当然、エネルギーがあるんだね、この辺に。ものすごいエネルギーがガーッて込み上げてきてで、それが悲しみだと。「ああ、悲しい!」と。「ああ……」で、それが人によって憎しみだったり、あるいは執着だったりいろいろあるわけだけど。で、わたしはそのときにその悲しみに襲われながら、そのときよくやってた一つのやり方としてね、その悲しみのエネルギーの中心にグッと精神集中したんです。グーッと精神集中するんです。で、これは、はっきり言って普通は不可能です。なぜ不可能かというと、イメージで言うと、こういうもんです。つまり、非常に滑りやすい、ぽにょぽにょした、ぐにゃぐにゃしたものなんです、エネルギーって。で、集中っていうのはちょうど、そこに、ある棒みたいなものを刺そうとする感じなんです。で、どういうことかっていうと、くにゃってなってしまう(笑)。つまり刺せないんだね。この感情に集中を刺すっていうのはとても難しいんです。刺そうと思ってもくにゃってなって、「あれ?」って中心がずれちゃって刺せない。だからものすごい集中力が必要なんです。ものすごい集中力をもって……だからわたしも何回も失敗しつつ、やっと成功したんです。ガッ!てその中心に、その集中の針を刺したときに、何が起きたかっていうと、そのエネルギー自体は全くなくならないんです。つまり強いエネルギーはそのままあるんだけど、悲しみではなく歓喜になったと。つまりグワーッて湧き起こる歓喜になった。つまり、変な言い方をすれば、このタイプの瞑想っていうのは、その前の悲しみなどの感情が強いほど、歓喜も強い。で、そのときにわたしが悟ったっていうか経験的に感じたのはね、「あ!」――まあ、さっき言ったことなんだけど――「あらゆる感情のエネルギー、あるいは肉体のエネルギーを含めて、あらゆる感情の正体は、ただの純粋な歓喜であった」と。
で、問題はその次の瞬間なんです。どういうことかっていうと、心の源から、ものすごい純粋な歓喜のエネルギーが現われましたと。この段階っていうのは、ただの純粋な歓喜だから、素晴らしい境地なんです。で、この一瞬後、それは一秒にも満たないような、瞬間の後に、経験的概念がそこにババババッて乗っかってくるんです。つまりこれはわたしのさっきの瞑想のね、逆の話で言うと、グーッて集中して、パーッて歓喜になる。しかもそのエネルギーが強いから、もう自分がもうつぶされてしまうかのぐらいの歓喜になるんです。ウワーッて歓喜になるんです。でもこの集中がちょっと外れて、また「そういえばあいつめ」とか思いだすと(笑)、またそこにババババッてこう概念が被さって、ただの大きな悲しみになってしまうんです。うわー!と。言ってること分かるかな(笑)? ね。だからここに、なんていうかな、この部分にすごくその焦点を当てるのが、密教的修行なんだね。
つまり、原始的な修行っていうのは、そのエネルギー自体を否定する。それ全部やめましょうねと。この、つまりシャクティと呼ばれるこの宇宙を創ってる、あるいは感情を創り出してるさまざまなエネルギーっていうのは、われわれに苦しか生み出しませんよ、ですからそのエネルギーを否定しましょうと。じゃなくて密教では、いや、それは、さまざまな概念がそこに乗っかるから苦なんであって、概念を全部取り払ったらそれはただの――いや、ただのというよりも、純粋な至福に満ちたエネルギーなんですよと。そこに至りましょうと。それがまあ密教的修行なんだね。
だから密教っていうのはすごく、なんていうかな、単純に悟り澄まして「無だ」とかいってる世界ではなくて、今言ったみたいに、聖者が歌い踊ったりとかね、もうちょっと強烈なイメージがあるんですね。よくこういう方向で悟った人のことを、チベットではね、ニョンパっていったりする、ニョンパって直訳すると狂人っていう意味です。つまり狂った人(笑)。よくこれも前にも言ったけど、チベットではほんとにそういった密教で悟った人っていうのは、傍から見ると狂人のように見える場合があるっていう、なんていうかな、一般概念があるんだね。だから町中でちょっと狂人みたいな人を見かけると、村人たちが議論するっていうんだね。「あいつは聖者なのか、ただの狂人なのか、どっちだろう」って議論するっていう話があって(笑)。でも、そういうもんなんだね。ただこう静かな人って感じじゃなくて、なんていうかな、ほとばしる聖なるエネルギーにあふれてるっていうか。そういうタイプの聖者になっていくんですね。だからこの、まあサラハも、もう一回言うけど、そういうタイプの聖者の一人なんだね
はい。また前置きがかなり長くなりましたが(笑)。
(一同笑)
はい。で、これはね、心して読まなきゃいけません。なぜ心して読むのかっていうと、さっきも言ったように、いいですか、一般人のためには百六十の教えが必要だった。で、中間的に優れた人のために八十の教え。で、最高に優れた者のための教えがこの四十の教えなんです(笑)。皆さんにその資格があるかどうかっていう問題があるんだね(笑)。だから、なかなかそれは、つまり、まあ、なんていうかな、いきなりね、皆さんはまあ、まだ修行の幼稚園児みたいなもんなわけだけど、いきなり今、東大のカリキュラムを手にしてるようなもんですね。でもこれも、慎重に深く解明していけばね、もちろんわれわれにとってもとても役に立つ教えであると思います。
-
前の記事
解説「王のための四十のドーハー」第五回(3) -
次の記事
解説「王のための四十のドーハー」第五回(5)