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解説「王のための四十のドーハー」第三回(1)

2008年11月5日

解説「王のための四十のドーハー」第三回

 はい。もう一回簡単に言うと、これはサラハという昔のインドの修行者、大聖者ですね――がいて、この人は初めは、まあヒンドゥー教の、いわゆるバラモンというかな、ブラーフマナというか、一番階級が上の、しかもまあ、かなりいい家系のね、エリートに生まれた、ヒンドゥー教のお坊さんだったわけだけど、仏教に改宗し、で、それだけじゃなくて、まあ、ダーキニーね――このダーキニーっていうのは、表面的には、弓矢を作る女性だったんですね。非常に身分の低い女性だったんだけど、実はダーキニー、つまり完全な智慧を得た女神の仮の姿だった。そのダーキニーに導かれて、火葬場ですね、火葬場で、まあ、いつもなんか歌ったり踊ったりしてると。で、この人はもともと王様に非常に気に入られてたわけだけど、王様がね、気に入ってた、素晴らしい家系の生まれの、非常に頭が良い、素晴らしい知性にあふれたお坊さんだったサラハが、いつの間にか仏教に改宗してしまって、それだけならまだしも、火葬場で身分の低い女と一緒に歌ったり踊ったりしてると。それはどういうことなんだ、ということで、まあ、最初に部下たちを調査に行かせて、で、そのあとに王女様を調査に行かせて、で、最後に王様が行くわけですね。で、部下たちに対してはサラハは百六十の歌を歌い、その部下たちを悟らせてしまった。で、次に女王様に対しては八十の歌を歌い、悟らせた。つまり女王様の方が智性が高かったから半分でよかったわけですね。で、最後に王様自身が行ったときに、サラハがその王様に対してこの四十の歌を歌って王様を悟らせてしまうんですね。つまり、王様は最も、まあ智性が高いっていうかな、修行者としての素質があった。だから四十だけでよかったんですね。で、それによって、王様も悟ってしまった。で、その歌がこの四十のドーハーっていうやつです。
 だからこれは、まあ、なんていうかな、もちろん、こういう勉強会ではね、論理的に考えていくわけだけど、実際は、ある程度の意味を理解したら、それはまあ、皆さんが瞑想しなきゃいけない。もしくは、論理的に考える頭とはまた別の頭というか、別の智性によって、その本当の意味をつかまなきゃいけないんですね。
 あるいはすぐにはこれは分からなくても、これを心にちょっと刻んでおいて、で、皆さんの修行が進んだときに、こういった一つ一つの言葉が役に立つときがあるかもしれない。そういう、われわれの悟りの扉をこじ開ける鍵みたいな言葉だね。そういう理解で、なんていうかな――だからこう、ガチガチな、すべてを論理的にとらえようとするんじゃなくて、これが言わんとしてるもうちょっと柔らかい、柔軟なものを、まあ、つかもうっていう姿勢で学んだらいいですね、こういう言葉はね。

【本文】

けがれた排泄物の臭いに執着する虫は
ビャクダンの純粋な香りを不潔だと思う
同様に、無智という汚物の中で、輪廻の香りに執着する者は
ニルヴァーナの純粋な喜びに背を向ける

 はい。これはまあ、表面的な意味合い自体は非常に簡単ですね。言わんとしてることはね。このままです。つまり「けがれた排泄物の臭いに執着する虫は」――つまりハエとかですね。ハエとかウジ虫っていうのは、まあ排泄物が好きだと。そこを住処にし、そこを食べ物とし、で、そういうのがあると、その臭いがすると、ああーって寄ってくる。で、「ビャクダンの純粋な香り」――ビャクダンっていうのはチャンダナね。サンダルですね。白檀っていうのは、もちろん瞑想に、なんていうかな、一番いいお香だともいわれるけども、非常に純粋な香りであると。で、人間っていうか、白檀が好きな人っていうのは、当然、「ああ、素晴らしい香りだ」と思う。で、もちろん普通は排泄物の臭いっていうのはとても嫌だと。気持ち悪いと。で、これは例えなので、なんていうかな、例えとしてとらえてほしいわけだけど、しかし、まあ、これが絶対的な一つの基準だとしてだよ。例えだから。白檀というのは素晴らしい純粋な香りだと。で、排泄物というのはほんとに汚らしい、けがらわしいものだと。しかしハエなどの虫は、完全にその意識が倒錯してしまっていて、その汚いものに執着してる、ことによって、その白檀の純粋な香りを逆に汚いと思ってる。で、これが一つの例えとして、無智なる衆生の姿なんですよと。
 つまり、この輪廻というのは――「輪廻の香り」っていう言葉で表現されてるけど、これはとても、なんていうか、いい表現なんですね。輪廻の香り。この輪廻っていうのはほんとにけがらわしい、汚らしい、そして本質的ではない、苦悩に満ちてるっていうかな、そういうもんだと。で、その中で、それが汚い、苦しい、あるいは苦悩に満ちてるということに、気付いてるならいいんだけども、全く気付いていない――どころかその汚いものを、つまりハエが排泄物に執着するように、そのけがれた輪廻っていうのものに対して、まあ、なんていうかな、執着してしまってる。これが今のわれわれですと。で、それは逆に、ハエが――実際にハエが白檀を嫌がるのかは別にしてね。これは例えなので。ハエが白檀を嫌がるとして、それと同じように、ほんとにわたしたちの魂にとって素晴らしい、至福であるニルヴァーナ、あるいは解脱の状態ね。これはほんとに素晴らしいんだけども、まるでそれが嫌なもののように、けがれたもののように思ってしまう。これが、まあ多くのっていうかな、われわれ、この輪廻にはまってる衆生の姿なんですよと。だからそれを、悟ってくださいと。
 だからこれは別に、なんていうかな、難しく考えなくていいです。これはもうこのままです。つまり、これはイメージだね。一つのイメージとして、もしわれわれが、この世のいろんなものに執着してると思ったら、自分はハエだと思ってください。ね。ハエだと。それはまるで、「うわ! なんでこのハエというのはこんな汚い排泄物にたかるんだろう? ああ、これを食べている。なんでこんなの食べて喜んでるんだろう?」ってわれわれが思ってるのと同じような状況に今われわれはあるんだと。そんなものに執着するなと。もっと素晴らしいものがあると。
 で、われわれは逆に、なんていうかな、教えを学んでるから、ニルヴァーナとか教えとかを、もちろんけがらわしいとは思わないね。けがらわしいとは思わないけども、ちょっと、自分にとって苦しいとか、大変だとかは思うかもしれない。つまりどういうことかっていうと、修行の道っていうのは自分のいろんな執着してるものを捨てなきゃいけないし、あるいは自分のカルマを浄化するために苦しいこともいっぱいあるかもしれないし、で、それはとてもなんか大変であって、逆に、まあ、この世のいろんな喜びを追求した方が、それは楽しいんじゃないかっていう本音っていうかな、心の潜在意識にそういう思いがあるかもしれない。で、それは、完全に意識の倒錯っていうか、つまり、本来けがれてる排泄物に執着する虫のようなもんなんだっていう意識を、常に自分の中に置いといたらいいですね。それが分かってて、でもちょっとまだカルマ的にそういう執着が出ちゃうとかならまだいいんだけど、じゃなくて完全にわれわれは無智であると、それが全く分かんなくなってしまう。つまりわれわれの目の前にある現世的な執着の対象が、けがれたものに見えなくなってくる。完全に世界にはまってしまうとね。だからその基本認識っていうかな――を、ここは説いてる詩ですね。

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