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解説「王のための四十のドーハー」第一回(4)

 つまり、ちょっと話が戻るけど、それくらい、身分の差への観念っていうのは大きかった。この矢作り職人っていうのも相当低い身分だったらしいんだね。われわれからはよく分かんないんだけど。しかもブラーフミンとかの感覚でいうと、女性っていうのも低いものと見てる。だからその矢を作るような低い階級の女性、これは非常に低く見られる存在だったんだね。そのようなけがれた不浄な者と一緒に住み、しかもその女に食事を作ってもらってると。だからそれはわれわれからすると別に「え? それがどうしたの?」って感じなんだけど、王様からすると大変なショックだった。サラハはどうしてしまったんだと。いったい何をやってるんだと。そこまで狂ってしまったのかと。で、それだけじゃなくてなんか、修行とか瞑想してるっていうよりは、なんかその女と一緒に墓場で歌って踊ってると。いったい何があったんだと。で、王様のお付きの正統的なブラーフミンたちも、非常にサラハの悪口を言うわけだね。「もうあいつはもう駄目です」と。「もうあいつは狂ってしまった」と。
 しかしサラハをすごく評価していた王様は、サラハのことが諦めきれずに、自分の手下たちを、まあ数十人か数百人か分かんないけど手下たちを、サラハのもとに送るんだね。つまりまず事情を聞こうと。いったいどういうわけでそんなわけの分からない暮らしをしてるんだと。事情を聞こうと思って手下たちを送ったんです。で、そこでサラハは――いよいよ今日の本題に近づいてきますが――「百六十のドーハー」っていうのを歌った。
 「百六十のドーハー」っていうのは――このドーハーっていうのは、これは仏教の、密教の伝統なんだけど、悟りの歌ですね。つまり論理的なっていうよりは、悟りの心をストレートに表現したような歌。ただまあ実際には、ただ思うがままに歌ってるっていう場合もあるんだけど、今回の場合はそうじゃなくて、相手を意識して、つまり相手を悟らせるために歌った歌ですね。これがサラハのドーハー。
 で、最初、王様の侍者たちが来たときに、サラハは彼らに百六十の歌を歌うんです。で、その百六十の歌を聞いた王様の侍者たちは、みんな悟ってしまった。で、悟ってしまって、サラハと一緒に歌い踊り始めた(笑)。
 で、王様は、いつまでたっても使いの者が帰ってこない。サラハのもとに事情を聞きに行かせた者たちが帰ってこない。で、見に行かせたら、みんなで歌って踊ってると(笑)。いったいどうしたんだと(笑)。で、そこで次に王様は、彼の娘を行かせるんだね。なぜかというと、最初に言ったように、王様はサラハを気に入ってたから、のちのちには自分の娘をサラハの奥さんにしようと思っていた。だから娘の言うことなら聞くかもしれないと思って、娘を行かせるんですね。そしたらサラハは、彼女に対して、八十のドーハーを歌った。八十ね。さっき百六十でなんで今度八十かっていうと、つまり、最初に来た人たちよりも、その王様の娘の方が理解力が優れていたからです。つまり半分の八十で良かったんだね。半分の八十の歌だけで、その娘を悟らせることができた。で、その娘も悟っちゃって、歌い踊り始めた(笑)。
 で、娘も帰ってこないと(笑)。で、行かせてみると、娘も歌い踊ってると。ついに王様自身が出向いていった。で、王様自身が出向いていって、サラハに会って、「いったいどういうことなんだ?」って問い詰めると、そこでサラハは、今回勉強する、四十のドーハーを歌ったんです。分かると思うけど、つまり王様はその娘よりさらに理解力があったんです。つまり今は王様の姿をしてるけど、実際は非常に素質の高い修行者だったんだね。だから、一般の人には百六十必要だったんだが、娘も素質があったから八十で良かったんだが、王様は四十で良かったんです。つまり四十の歌をサラハが歌うことで、王様は完全な悟りを得た。で、王様が、つまり国のトップである王様がマハームドラーの悟りを得てしまったために、国全体が変わってしまった、といわれています。最終的には国全体が悟ってしまった。これがサラハの物語だね。
 ちょっと前置きが長かったけど、今日学ぶのがその、サラハが最後の王様に歌った歌です。だからわれわれも、そのときの王様と同じぐらいの素質がもしあれば、悟れるかもしれない(笑)。もちろんそれはなかなか難しいと思うけど。
 この種の教えっていうのは、なんていうかな、例えば皆さん読んだときに、ある程度はパッと読んで論理的に理解できるかもしれないけど、どちらかというとこの種の教えっていうのは、論理的に理解するというよりは、悟るための教えなんだね。例えばだけど、皆さんがある段階、つまり準備がある程度できた段階のときにこの歌を読む、聞くことによって、バシッと心がチェンジすることがあります。そのための教えです。だからもちろん、論理的に理解するのはそれはそれで素晴らしいんだけど、ただ、それだけじゃないんだっていうふうに覚えといたらいいね。わたしは今論理的にはこう思うけども、もうちょっと実は深い何かがあるんだと。
 つまり、いつも言うけども、悟りそのものは言葉では表わせないんです。よってすべての教えはサインでしかない。で、こういう教えっていうのは、そのサインの性質がかなり強いんです。サインの性質が強いって、意味分かる? つまり皆さんの表層意識を納得させようという教えじゃないんです。皆さんの深い意識に気付きのきっかけを与えるための教えなんだね。だからそういうふうに思ってたらいいと思います。だから皆さんが修行を進めるたびに、この教えをね、何度か読み返すと、そのたびに違う理解が出てくるかもしれない。だから今回この勉強会があって、今日ではもちろん終わらないだろうから、何回か続くと思うけども、この教えについては予習はいらない。まあ、ほかの勉強会でも別に皆さん予習してないだろうけど(笑)、これも予習はいらない。ただ重要なのは、修行してください(笑)。皆さんがしっかり修行して、心がクリアーになって気が上がっているときほど、この教えは意味を持ちます。つまり利益になる。そういうタイプの教えだね。

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