解説「安らぎを見つけるための三部作」第一回(3)

この貴重な人間の生を得たこと、そして真理と巡り合ったことの意味は何でしょうか。
それは、以下の八つの無暇の条件を乗り越えたということです。
私の心は、地獄に生まれませんでした。
餓鬼にも生まれませんでした。
そして動物にも生まれず、
阿修羅にも生まれず、
また長寿の神々にも生まれませんでした。
また、野蛮人にも生まれませんでした。
そして誤った見解を持つこともなく、
ブッダの教えがない世界に生まれるということもありませんでした。
はい。これはよく出てくる、八つの無暇の条件を乗り越えたという部分ですね。これはよく出てくる話だし、何度もここでは説明してますが、もう一回簡単にね、さーっとおさらいしましょう。
はい、まず「私の心は、地獄に生まれませんでした。」
つまりまあ仏教でもヨーガでも、輪廻のね、一番下にこの地獄界っていうのを置くわけですが、簡単に言いますよ――われわれがもし地獄に生まれたとしたら、もちろん修行なんかできない。じゃあこれ、何度も言ってる話なのでね、おさらいの意味で、じゃあM君。なんで地獄に生まれたら修行できませんか?
(M)憎しみに覆われていて、で、傷つけられたりして苦し過ぎて修行ができない。
そうですね。つまりもう、単純に苦し過ぎて修行ができない。つまり地獄の苦しみっていうのは、なんていうかな、もう考える暇がない苦しみなんだね。つまりずーっと炙られてるとか、ずーっと八つ裂きにされてるとか、そういう世界だから。例えばしばらく考える時間があるんだったらいいんだけど、じゃない、もうずーっと苦しみを続けられてるから、そんな暇なんてない。極限的に、体をぐじゃぐじゃに切り裂かれるとか、あるいは体を炎で焼かれてるとしたら、まあ相当の精神力がないと考えられないよね。頭からすべて吹っ飛んでしまう。だからもちろん地獄に生まれると考えることができないから、真理を探求するとかあるいは修行することなんて全くできませんよと。
次に、「餓鬼にも生まれませんでした。」
はい。餓鬼っていうのは、これはいつも言うように、霊ですね。低い霊です。低い幽霊みたいなもんです。で、この餓鬼の心はいつも貪りでいっぱいだと。だから餓鬼っていうのは、地獄とかに比べるとある程度自由はあるんだけど、もう心は貪りで覆われてて。これもつまりね、皆さんがそうですね、何かものすごく、ある対象に心が奪われちゃったときみたいなものです。皆さんも経験あるでしょ? 例えば、日々何時から修行しなきゃいけないって例えば決めてたとしてね、でもその時間に何かすごい執着が出ちゃって、もうほんとに修行なんか考えられない。ある一つのものに対してすごい心がとらわれちゃうっていうのがあるかもしれない。で、それがずーっと続いてるのが餓鬼です。つまりずーっともう心があるものにとらわれちゃって目覚めない。だから全く、「さあ、真理を求めましょう」とか「正しく生きましょう」とかそんなことが耳に入らないんだね。これが餓鬼だと。でもわれわれはその餓鬼にも生まれることがなかった。
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