解説「人々のためのドーハー」第一回(10)
それが瞑想から離れて存在するなら、どのように瞑想するというのか?
それが言葉にできないものなら、どのように議論するというのか?
すべての世界は、物事の外側の姿の奴隷となり、
誰も自分の真の本性を捕まえることができない。
マントラとタントラ、精神集中と瞑想、
それらはすべて、自己欺瞞の原因となる。
思索の瞑想にふけることで、自己の本性の純粋さをけがしてはいけない。
自己の本性の至福に従うことで、これらの受難を止めなさい。
はい。まあ、これも続きですね。
それが瞑想から離れて存在するなら、どのように瞑想するというのか?
それが言葉にできないものなら、どのように議論するというのか?
はい、つまり、まあ、言い方を換えると、その本質というのは、悟らなきゃいけない本質っていうのは、瞑想の中にはないんですよと。もちろん瞑想はその技法の一つとしては使えるわけだけども、でもそこにはないんだと。あるいは、それは言葉にできないものなんだから、それを論議してもしょうがないと。意味がないと。
前から何回か言ってるけどさ、われわれの本当にいい瞑想っていうのは、あっちからやって来ます。入ろうとして入るもんじゃなくて、あっちからやって来る。それはね、ほんとにね、わたしの経験で言うと、いきなりやって来ることもあるよ。いきなりやって来るっていうのは、もちろん修行して瞑想してるときにはやって来やすいわけだけど、そういうときだけじゃないんですよ。ご飯食べてるときとか、くつろいでるときとか、トイレの中とか、いきなりやって来ます。例えばご飯食べてて「ああ、このサンマ」とか言ってるときに、パーッて来たりするんだね(笑)、素晴らしい瞑想状態が。そうするともう止まってしまうっていうか。で、ウワーッてそのいい瞑想に引き込まれたりとか。何気ない家事とかやってる間に来るかもしれない。でももちろんそれは普段から準備ができてないといけないんだけどね。だからそれを、その秘密っていうか、そこに持っていくための一番いい方法を知ってるのが、やはり師なんだね。師匠なんですね。だからこれも、かたちだけの瞑想にとらわれたり、あるいは真理を言葉でああだこうだ言い合って満足してるようなことに対する批判だね。
すべての世界は、物事の外側の姿の奴隷となり、
誰も自分の真の本性を捕まえることができない。
はい。ヨーガや仏教、あるいは精神世界や修行っていうものに興味を持ってる人は、もちろん、多くの、ほとんどの人から見たら、より本質的なものに心を向けてるとは言えるよね。でもその人たちもまた新たな、つまり修行の世界における権威であるとか、あるいは修行の世界における唯物的思考であるとか、修行の世界におけるエゴっていうものにやはり引っかかってるんですね。そういった外側のものにみんな引っかかって、本質が見破れないということだね。
マントラとタントラ、精神集中と瞑想、
それらはすべて、自己欺瞞の原因となる。
はい、これも、何度も言うけども、これをやってはいけないっていうわけではない。マントラを唱えること、あるいはタントラね、密教のいろんな修行ね。精神集中と瞑想、当然それはやらなきゃいけないんだけど、でも現状を言うならば――現状ってこのサラハの当時の現状だけど――でもサラハの当時もそうなんだから、現代でもそうだよね。現状を言うならば、逆に瞑想とかが、あるいは密教とか、マントラ唱えてるよっていうことが、自己欺瞞の原因になっちゃってるだけですよっていう人が多いと。もちろん、みんながそうだっていうんじゃないよ。だからこれは、自分自身で振り返って、自分のことを気を付けなきゃいけない。ただの自己満足に終わってないかな、ただの、逆に修行をやってるふりをして、エゴを甘やかしてる材料になってないかな、とかね。ほんとに本質的にわたしは悟りに向かってるんだろうか?というのを自己観察しなきゃいけない。
思索の瞑想にふけることで、自己の本性の純粋さをけがしてはいけない。
自己の本性の至福に従うことで、これらの受難を止めなさい。
これはね、このサラハが中心的にやってる、いわゆるマハームドラーっていう修行ね、このマハームドラーとか、あるいはゾクチェンとかもそうだけど、それらは、いつも言うように、心の本性に直接アクセスするタイプの修行法なんだね。だからその観点から言うと、ああだこうだと思索すること自体が心をけがすと。つまり心を最も原初的な状態に戻さなきゃいけないんだ、ということだね。
でもこれも、何度も言うけども、系統によって、やり方によってはもちろん思索を取り入れる場合があるから、これはだから絶対的に思索しちゃいけないってわけじゃないよ。仏教においては特に初歩段階では思索をするね。経典を学んで、経典どおりに自分のことをしっかり思索すると。これはね、実際問題、具体的に言うと、思索は必要です、当然。初歩段階ではね。だって思索がないとまず第一段階の壁が破れないから。第一段階の壁っていうのは、自分が間違った考えをしてたとして、それがどのように間違ってるのか、あるいはどのように考えを正していけばいいのかっていうのは、まず教えを学んで、その教えどおりに論理的に考えていく流れがないといけない。
ただ、ここで修行してる、学んでる皆さんは分かるかもしれないけど、なんていうかな、そのちょうどいい点っていうのがあるんだね。ちょうどいい点っていうのは、思索はしなきゃいけないが、し過ぎてもいけない。
これはね、これはわたしの経験っていうか考えでは、ジュニャーナヨーガとかもそうなんだけどね。ジュニャーナヨーガっていうのは、今仏教の多くの人たちがやってるような、ああいう、勉学的な論理追求じゃないんだね。半分ちょっと神秘体験なんです。半分神秘体験っていうのは、修行して思索するんだけど、当然そのポイントポイントでインスピレーションが来るんです。インスピレーションがやって来て、つまり論理的に「こうで、こうで、こうで、こうかな? こうかな?」「いや、違うな、どうなんだろう、どうなんだろう、どうなんだろう?」ってぐるぐる回ってるところにインスピレーションがバーッて注がれて、バーッて解けるんです。「あ、こうか」と。「そうだ!」と。「じゃあ、これはどうなんだろう? こうでこうでこうで、こうで、あ、こうだ!」――つまりインスピレーションとか神の祝福みたいなのがないと、不可能なんだね。で、それをね、例えば第三者に論理的に説明するのは非常にまた難しいんです。「こうでこうでこうだからこうなんだ」と。「え、どうしてそうなるの?」ってなるんだね、普通は。「こうでこうだから、こうだ」と。「でもなんでそう言えるの?」と。「いや、そうなんだ」と。
皆さんも思ったことあるかもしれないけど、ヒンドゥー教とか仏教の論理展開って、修行しないで普通の知性で見たら、相当穴があるように見える。穴があるっていうのは、そうも言えるけどでもこうも言えるよねっていうのはいっぱいあるんだね。非常に論理展開が強引に見えるっていうか。「こうでこうだから、こうなのである」「え、なんでそうなるの?」っていうのがあって。でもそれには智慧がやっぱり必要なんだね。それは祝福であるとか智慧であるとかね。
何度も言ってるけど、ここでも勉強してる、お釈迦様の四諦ね、四つの真理とかもそうだよね。「一切は苦ですよ。なぜならばこうこうですよ」っていう一応論理展開がある。でもそれ読んでも、反論は十分に可能なんです。「え、でもそうも言えないんじゃないですか」と。「こういう観点で見たらこの世は楽しいんじゃないんですか」とか、いろいろ言えるわけですね。つまりそこには智慧が必要なんです。あるいは祝福が必要なんだね。それで初めて開かれるものがある。だからその辺の、中庸っていうか、一番いいポイントをつかんで進んでいかなきゃいけないんだね。
だからこれを例えば学んでね、「あ、じゃあおれはもう思索しない」とかいうのもそれも一つの間違いです。それも間違った極端っていうかな。
はい。ただまあ、ちょっと話を戻すと、このサラハの道っていうのはマハームドラーの世界なんで、それはまあ、そういった、ああだこうだ考えるっていうよりは、直接自分の心にアクセスするやり方を、まあ提唱してるわけですね。
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