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解説「ミラレーパの十万歌」第三回(7)

◎ミラレーパの生き方のエッセンスを

 はい。あと最後の方で、「生きるために仕事をするなどということは、わたしには冗談のようなもの」だと。ね。これもまあ、一つの極端な説だね。
 ミラレーパってさ、この間も言ったけど、すごく、なんていうか、ストレートな人なんだね。ミラレーパはこの歌を誰に言ってるかっていうと、村人に言ってるんですよ。つまり生きるために日々一生懸命働いて、なんとかやってる人々に対して言ってる。「生きるために働くなんてわたしには」――普通だったら気を使うじゃないですか(笑)。「まあ、君たちはそれでもいいが」みたいなね。
 でもこれはね、ラーマクリシュナもやっぱり似てるね。ただラーマクリシュナは、やっぱりある程度は気を遣ってる。ラーマクリシュナの弟子には二つのタイプがいて、一つはもう大人。大人で、ある程度仕事や家庭がある信者たち。で、もう一つのタイプは、青年っていうか若者です。つまりまだ学生であるとか、まだ結婚もしてないとか、あるいはまだ仕事もしたことがないとか。もちろん中には結婚してたり仕事をしてる人もいたけども、ほとんどはまだ、なんていうかな、現世のいろんなことに経験がない子供たち。で、その若い方に関しては、ラーマクリシュナは、仕事もするなって言ってるんだね。つまりここで言う仕事っていうのは、「自分が欲望を味わうために、そのために人に仕えるなんてこと、あってはいけない」と。つまり、「われわれは神の召使いであって、欲望のために、誰か人間の召使いになるなんてことは、それはあってはいけないんだ」っていう発想なんだね、ラーマクリシュナはね。で、あるとき、その若い方の弟子の一人が仕事に就いたっていう情報を聞いた。そしたらラーマクリシュナはすごい苦悩するんだね。「うおー! なんてことだ!」と(笑)。でも事情を聞いたら、実は――ちょっと正確には忘れたけど、お母さんか誰かが病気か何かでほんとに苦しんでいて、ちょっと苦境に落とされて、で、それをなんとかしなきゃいけないんで働いたんですっていうのを聞いた。そしたらラーマクリシュナはホッとしたんだね。「あ、それならいい」と。つまりそういう、誰かを救うためにね、働いたんだったら、それは問題ないと。「しかしもしおまえが、自分の欲望のために、つまり自分でなんか楽をしたいがために人の下について働いたっていう知らせを聞くくらいだったならば、おまえがガンジス河に身を投げて死んだっていう知らせの方がまだましだ」と、そういうふうに言ってるんだね(笑)。すごい激しい人だね、やっぱりラーマクリシュナもね。
 でね、ラーマクリシュナが面白いのは、ラーマクリシュナって――わたしも何回か行ったけども、今でもね、ドッキネッショルにラーマクリシュナの部屋って残ってるんだけど――そうだな、どれくらいかな。あ、この部屋くらいかもしれないね、ちょうどね。この部屋よりちょっと狭いくらいかもしれない。これくらいの部屋で、ベッドが二つ置いてあって、で、そこにラーマクリシュナが座っててね。で、自由にみんなやってくるんです、信者たちが。で、さっき言ったように、在家でもう家族も仕事もある人たちもいて、で、若い弟子たちもいて、で、ラーマクリシュナは、在家の人たちもいるんだけど、その若い弟子たちに向かってそういうことを言うんだね。「おまえが働いたっていう知らせを聞くほどだったら、ガンジス河に身を投げたっていう知らせを聞く方がマシだよ」と。そうすると、在家の人たちはなんか青くなる(笑)。「え! われわれはじゃあどうすればいいんですか?」――で、ラーマクリシュナは、「あ、おまえたちはいいよ」と(笑)。「おまえたちに言ってんじゃないんだ」と。つまり「、おまえたちはしっかりと、神を心から離さずに、この現世でね、生きていきなさい」と。
 で、そういう人たちに言うラーマクリシュナの例え話もいろいろあって、例えば「女中のようであれ」と。女中ね。つまり雇われ女中のようであれと。つまり雇われ女中っていうのは、その雇われた家でね――例えばうちのおじいちゃんって社長をやってて、お手伝いさんがいるような大きな家に住んでた。で、わたしも小さいころ、親が共働きだったら、昼間よくそのおじいちゃんとおばあちゃんの家に預けられて、で、お手伝いさんがいろいろわたしの相手をしてくれたりしてたんだね。で、そういう感じでお手伝いさんが、その主人の家でいろんな手伝いをして、で、その家の子供とかも育てる。ね。で、例えば太郎君だったら、「ああ、太郎ちゃん。ああ、わたしの太郎ちゃん。ああ、太郎ちゃん」って感じですごく、まるでほんとの子供のように育てる。あるいはほんとに自分の家のように掃除をしたり食事をつくったり、で、例えばその家に何かがあったらほんとに自分の家のことのように苦しむ。まるでほんとのその家の家族のような感じがある。でも、その女中はほんとはいつも、心の中では実家のことを考えてるわけだね(笑)。ね。まるでほんとに家族のようだけども、本音は実家のことをいつも考えてるんです。「ああ、お母さんどうしてるかな?」とかね。
 こういう感じであれ、って言ってる。つまり、「この世の中でいろんな役割を君たちは演じてるだろう」と。誰々の夫とかね、誰々の妻とか、仕事の何かの役員とか、「それは全部役割だ」と。「心は常に、神の下に置いておけ」と。「つまり、君の故郷は神の世界だ」と。こういうことを在家の人たちには指導してる。
 だからここでミラレーパが言ってるような、「生きるために働くなんて、冗談でしょう」と、そういうような発想に誰もがなる必要はないんだけど、そのような、なんていうかな、ベースの発想みたいなものは頭の中に入れといた方がいいね。で、それがあったら、われわれはあまりにも過度にはこの現世には巻き込まれなくなる。つまりあまりにもこの世の欲望とかお金とか、あるいはさまざまな現世的な――つまり無常なるね、すぐに終わってしまうような喜びに心を奪われてしまうと、どんどんわれわれは本質的なものから心が離れていってしまう。だから何度も言うけども、われわれはこのミラレーパを百パーセント真似はできないかもしれないけど、エッセンスとして頭に入れといたらいい。
 はい。で、このミラレーパの場合は、ここにあるように、「わたしにとっては、生きるために仕事をするなんて、そんなのは冗談のようなものだ」と。これはまさにラーマクリシュナも同じだね。っていうよりも昔のインドとかの修行者っていうのは、だいたいそういうスタイルなんです。「え、でも、じゃあ、どうやって生きてくんですか?」っていう話があるよね。それはおかませなんです(笑)。ただ、今もそうかもしれないけど、昔のインドっていうのはもともとそういう、なんていうかな、聖なる領域だったから、つまりおまかせで生きててもなんとかなるんです(笑)。つまり誰かが布施してくれたりとか、誰かが供養してくれたりとか、つまりそういう、なんていうか、社会システムがもうできてるんだね。
 もちろんミラレーパとかの大聖者になれば、誰も布施してくれなくても女神が布施してくれるとかね(笑)、あるいはほとんど食わないでもやっていけるとかになるんだろうけど、そこまで行かなくても――例えばラーマクリシュナの弟子たちもそうだったね。ラーマクリシュナの弟子たちも、ラーマクリシュナが亡くなったあとに、すごく修行、現世放棄の思いに燃えて――ヴィヴェーカーナンダをはじめとしてね、みんな放浪の旅に出るんだね。で、そのときに、ヴィヴェーカーナンダもそうなんだけど、ほかの弟子たちも、保障とか計画一切なしで行くんです。つまり、「よし、おれは修行するぞ」と。「ところで食費がかかるから、これを用意していこう」とか、「泊まるところはここで」とか、全部計画して「よし、放浪だ」とかやるんじゃなくて(笑)、一切明日のことは無計画。ね。ノープランニングで進むわけだね。明日どころか今夜のことも何も考えない。もう神がただ自然に与えてくれるものだけで満足すると。食べるものがなかったら今日は食べなくてもいいと。寝る所がなかったら今日は寝なくてもいいという、つまりすべてをもう修行としてとらえるわけだね。こういう生き方っていうのは、だからこのミラレーパに限らず、昔のインドやチベットのまあサードゥとか出家修行者たちには当たり前のっていうかな、もともとある生き方ですね。

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