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解説「ミラレーパの十万歌」第三回(12)

◎すべては努力せずになされた

 自己の心はダルマカーヤ――ブッダの究極の身体であると知り、
 熱心に、利他の誓いをなすなら
 行為と行為者は消え去る。
 このように、栄光のダルマは勝利する。

 弟子の質問に答えて、
 老人は、この吉兆の歌を歌う!
 降雪が、わたしの瞑想の家を取り囲んだ。
 女神たちが、食料と支えを与えてくれた。
 雪山の水は、最も純粋な生ビールであった。
 すべては努力せずになされた。
 食物への欲求がなければ、耕作の必要もない。
 わたしの倉は、備えや蓄えがなくとも、満ちている。
 わたし自身の心を見ることによって、万物は見られる。
 低い座に就くことにより、王の玉座に至る。
 グルの恩寵により、完成に至る。
 ダルマの修行により、寛大さは報われる。
 信者と後援者たちは、ここに集まり、誠実なる奉仕をする。
 皆さんが幸福で、快活でありますように。

 はい。まあこの辺もね、何度も読んで、なんとなくそのフィーリングを自分のものにしたらいいと思いますが、いくつかだけ説明すると、このね、「すべては努力せずになされた。」――これはミラレーパの、なんていうかな、まあ精神的な余裕でもあるけども、もともとこれは――これもまたバクティヨーガ的なんだけど、つまり客観的に見ると、「ああ、ミラレーパ、なんかすごい吹雪が吹いて大変でしたね」ってなるわけだけど、ミラレーパ側から見ると、「降雪が、わたしの瞑想の家を取り囲んだ」っていうのは、これは悪い意味で言ってるんじゃなくて、これね、修行の、こういう山に篭もるときの一つのやり方として、自分でね、例えばこう、線を引く。例えば洞窟の周りにちょっと線を引いたり、あるいはいろいろ囲いを作ったりして、で、自分で決めるわけです。「ここからはもうわたしは出ない」と。「これから何カ月間はこの領域の中だけで瞑想に励む」って決めてやったりする伝統があるんだね。でもミラレーパは自分でそんなことをやんなくても、勝手に雪が降っちゃって取り囲んでくれたと(笑)。「おっ、なんか手間が省けたな」とね(笑)。例えばね(笑)。で、女神たちが――これも別に女神に頼んだわけじゃないんだけど、女神がやって来て、いろいろ助けてくれたと。食料とかくれたと。で、雪山の水ね。これはとてもまあ――生ビールって例えてるけども、まあ非常においしいものだったと。
 つまりここで言ってるのは、さっきのね、おまかせじゃないけども、つまり自分は何の努力もせず、ただ誠実に修行をしてただけなんだけど、すべては努力せずに整えてくれましたよというところだね。

 
 わたし自身の心を見ることによって、万物は見られる。

 ――これも、よく出てくる表現だね。つまり心がすべてだと。よって心を完全に見る、理解した者は、この世界を完全に理解したのと同じである。

 低い座に就くことにより、王の玉座に至る。

 ――われわれはプライドが高く、人よりも上に行きたいとか、あるいはその権力が欲しいとかいろいろ考えるわけだけど、そうじゃなくて常に謙虚に、常に自分はまだまだと思い努力することによって、まあ実際に王様になるかどうかは別にして、偉大なる魂に成長していくということだね、ここはね。

 
 グルの恩寵により、完成に至る。ダルマの修行により、寛大さは報われる。

 ――はい。ここもちょっとだけ言うと、寛大な人って結構いるよね。いろんな意味で寛大な人ね。あるいは優しい人って結構いるよね。あるいはある程度、なんていうかな、人のことを考えられる人っていうのもいる。でも彼らがダルマ、つまり真理というものに巡り会えなかったら、それは必ずしもその人を、その寛大さっていうものが幸福にするわけではないかもしれない。もしかすると、その寛大さに誰かがつけ込んで、しかもそれをどう考えていいかも分からず、逆に心がどんどんひどい状態になっていくかもしれない。つまり優しい人だったがゆえに人に利用され、で、もちろんそれをカルマだと考えられればいいんだけど、その考え方も分からずに、どんどん腐っていく人もいるかもしれない。あるいはとても素晴らしい優しい寛大な心を持ってるのに、それをどのように――つまり菩提心とか、どのように衆生のために生かしたらいいかがよく分からずに生きていく人もいるかもしんない。よって、いつも言うけども、真理との縁、あるいは教えとかそれを与えてくれる師との縁が最も大事だっていうことだね。で、それと出会い、そしてそれをしっかり実践することによって、寛大さは報われると。

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