解説「ミラレーパの十万歌」第一回(8)
【本文】
四つの悪魔を克服した、父なるグル
翻訳者マルパに礼拝します。
あなたの知っているわたし、「タクセン・カルモの息子」という名前の者は、
三つの管を完成させながら、母の子宮で養育されました。
赤ん坊として、わたしはゆりかごで眠り、
若者として、戸口を見張り、
成人として、高い山に住みました。
雪の山頂の吹雪は恐ろしいけれども、わたしは恐れません。
崖は険しく危険ですが、わたしは恐れません!
あなたの知っているわたし、「黄金の鷲の息子」という名前の者は、
卵の中で、翼と羽毛を育てました。
赤ん坊として、わたしはゆりかごで眠り、
若者として、戸口を見張り、
成人として、空を飛びました。
空は高くて広いけれども、わたしは恐れません。
道は険しく狭いけれども、わたしは恐れません!
あなたの知っているわたし、「魚の王ニャチェンヨルモの息子」という名前の者は、
母の子宮内で、黄金の目を回しました。
赤ん坊として、わたしはゆりかごで眠り、
若者として、泳ぎ方を覚え、
成人として、大海で泳ぎました。
とどろく波は驚くべきものですが、わたしは恐れません。
釣り針は多いけれども、わたしは恐れません!
あなたの知っているわたし、「カギューのグルたちの息子」とい名前の者は、
母の子宮内で、信仰を培いました。
赤ん坊として、わたしはダルマの門に入り、
若者として、仏陀の教えを学び、
成人として、洞窟にひとりとどまりました。
悪魔や霊や悪鬼は多いけれども、わたしは恐れません。
はい。ここはちょっと、なんていうかな、分かりにくいかもしれない。
まずタクセン・カルモの息子――タクセン・カルモっていうのは、これは雪ライオンですね。雪ライオン。まあライオンと言ってもいい。ライオンね。で、次に黄金の鷲の息子。で、魚の王の息子と来て、で、カギューのグルたちの息子。つまりカギューっていうのはさっき言ったマルパとかの系統ですね。つまりまさにこれはミラレーパのことなわけですが。
だからこれは一見すると、ライオンとか鷲とか魚の話をしといて、それを導入として、で、「次に、わたしミラレーパは――」みたいに言ってるようにも見えるけども――まあそういうふうにとってもいいのかもしれないけど、『ミラレーパの十万歌』ってほんとに、なんていうかな、さっきも言ったように、修行が進むたびにちょっと深いところが見えてくる。わたしもこの物語は何度も読んだんですが――しかもこの話ってあんまり解説がないんだね(笑)。あんまり学者が解説して分かるような話じゃないから、自分が修行して深い意味を読み解くしかない。
で、この部分は結論から言うと、おそらく全部ミラレーパ自身のことを言っています。で、それをそれらの例えで言ってるんだね。
で、この、母の子宮内で、赤ん坊として、若者として、聖人として、云々ってあるけども、つまりこれは修行の段階の話ですね。例えば、まああまり細かくは言わないけど――細かくはまあ皆さんがこう修行を進めて悟ればいいと思う。
まず「タクセン・カルモの息子」という部分。はい。「母の子宮内で、三つの管を完成させながら」――これはね、実際われわれは――これはまあストレートな意味なんだけど――子宮内で、つまりお母さんのお腹の中にいるときに、普通はね、筋肉や骨やあるいは内臓がだんだんこう形成されていくっていうのは、普通に現代の医学で言われてるよね。でもチベットとかインドの医学では、それだけじゃなくて、管の形成をいうんだね。つまりわれわれの中に気道がいっぱいありますよね。この気道もお母さんの中にいるときにだんだん形成されていくんだということがよくいわれてます。まあその部分じゃないかなと思います。まあこれはまだ基礎的な部分だね。
「赤ん坊としてわたしはゆりかごで眠り、若者として戸口を見張り、成人として高い山に住みました。」――まあこれはまあ簡単に言うと、修行の道に入り、まず最初はゆりかごで眠ってるように、つまり本当に何もよく分からなくて、師匠や先輩たちの愛の中で、まあちょっと赤ちゃんのように育てられると。
で、だんだん自分が修行進んでくると、戸口を見張り、つまり自分自身がいかに教えから外れないか、さあ、わたしはいかに心を常に聖なるものに向けるか、っていうような段階に入る。
そして最終的に、高い山に住みましたってなってるけども、これはつまり、修行の高い段階に達した状態ね。で、当然それは実際のこの雪ライオンが高い山とかに登るときに、吹雪が来たりとか、あるいは険しい崖とかがあるように、われわれが高い境地を目指して――つまりまず最初は、もう一回言うけども、守られた状態があって、そこからほんとの意味での覚醒を得るために、高い境地に向かってるときっていうのは、さまざまな障害がやってくる。しかしそんなものは恐れませんよと。
はい。あとのやつも同じだね。黄金の鷲の息子っていうのも、まあ最初の方は同じだね。で、最後の段階でついに空を飛ぶ。つまり空を飛ぶっていう表現は、この自由な悟りの境地に足を踏み入れるわけですね。それは高く広く、そして険しく狭い。高く広いっていうのはその境地自体が、本当にもう、なんていうかな、自分の概念を超えた、自分の想像を超えた世界なわけですね。で、それは最初、われわれにとっては怖いものがあります。われわれは今とても、狭いところに縛り付けられている。で、その縛り付けられている鎖がちょっと外されて、自由な世界に、つまり悟りの世界にちょっと足を踏み入れると、とても怖いんです、最初。つまりもうほんとに想像もしなかったような、何の制約もない世界が広がる。しかしそれも恐れませんと。
「道は険しく危険ですが」――つまりこれは、特にまあこのミラレーパのいるような密教の道とかね、この道っていうのは、険しく、狭く危険だと。しかしそれは恐れませんと。
そして魚の王、これも最初の方は同じですね。はい。そして、その最後の方の段階で大海に出る。で、これもまあ同じように、「さあ、悟ろう」といって、なんていうかな、自由なる大きな海のような世界に漕ぎだすわけだけど、しかしそこで多くの波、轟く波のような、自分を驚かせるような、直接的な真理が現われたり、あるいは逆に釣り針のような、つまり自分を誘惑するような魔的な障害が現われたりしますと。しかしそんなものはわたしは恐れませんと。はい。
そして次はまあストレートな話ですね。「わたし、カギューのグルたちの息子であるミラレーパは、母の子宮内で信仰」――まあこれはほんとのお母さんの子宮内でっていうよりは、修行の最初の段階でね、「まず信仰を培いました」と。そして、「ダルマの教えの門に入り、しっかりと教えを学び、今、洞窟で一人瞑想修行を行なっている」と。で、ここで「いろんな霊や悪鬼、悪魔がやってくるけども、恐れません」というところですね。はい。
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