覚醒の太陽(19)
6.智慧のパーラミター
智慧とは、まず第一に識別であり、そして第二に無我の命題に適用されるものである。
(Ⅰ)識別の智慧
まず第一に智慧とは、すべての現象が空であるという形式的な瞑想修行中の認識であり、そしてすべての現象は魔術の幻影、あるいは夢のように実在しないという後瞑想の段階における叡智である。
(Ⅱ)智慧を無我に適用する
第二に、この智慧は無我の命題に適用される。
まず第一にわれわれは、カルマを積み、そしてその果報を受けたものを、自我、個人、人、あるいは衆生として分類するのが如何に愚かであるかということを考えなければならない。
吟味するならば、われわれは「自我」と「他者」というものに執着しているにもかかわらず、どこにも「自我」は存在せず、どこにも「他者」は存在していない――これは心の迷妄の力のゆえであり、実際には「自我」や「衆生」というものは存在しておらず、それらは事象そのものの上に仮に設定されたものである、という結論に行き着く。
次に、無我を悟りうるための修行法は様々あるが、その基本的な実践の一つとして、四念処を紹介しよう。
(Ⅰ)身念処
以下のように自分自身に問いかけて、肉体について検討すべきである。
われわれが肉体と呼ぶものは、各パーツが集まってできたものなのか、あるいはそうではないのか?
その肉体の起源はどこにあるのだろうか?
その肉体はどこにとどまっているのだろうか?
その肉体はどこで終わるのか?
最終的に、われわれは肉体の非実在性について瞑想しながら、静かに安らぐべきである。
肉体的な欲求や執着が生じたときは、「自分」と「他者」の肉体の不浄性と幻影性を瞑想すべきである。そうすれば、肉体への執着を乗り超えることができるだろう。
(Ⅱ)受念処
喜びと苦しみの感覚は、渇愛やとらわれのような心の悪しき状態の根源である。ゆえに、われわれはそれらが心などと同一のものなのか、あるいは違うのかを検討しなければならない。感覚の非現実性を瞑想し、一切の感覚は究極的には苦しみであり、本質を欠いていると考えるべし。
(Ⅲ)心念処
心は六識から成るものであると考え、この瞬間そして次の瞬間に、肯定的あるいは否定的な状態などのさまざまな様相で現れているこの意識の流れは、一つのものなのか、あるいはいくつかの異なるものなのかを検討しなさい。「好き・嫌い」、「信じる・信じない」、「ダルマに適っている状態・ダルマに適っていない状態」、「幸福・悲しみ」、「執着・嫌悪」などとして現われるすべてのさまざまな心の状態が、同一のものなのか、あるいは異なるものなのかを熟考しなさい。それらが一つのものであると思うならば、幸せ、悲しみ、欲求、怒りなどの状況によってさまざまな状態で現われるその一つの心は、何が原因で生じているのだろうかと考えなさい。もしそれらの心の状態は無常なる状況が原因で生じると思うならば、状況や何かとの接触による影響を少しも受けていないときは、心というものは一体どのようになっているのだろうかと熟考しなさい。それは存在しているのだろうか? それとも存在していないのであろうか? 永遠なるものなのだろうか? それとも無常なものなのだろうか? 何度も何度も、上記のような見解を分析し、心には土台も起源も存在しないという疑う余地のない確信の境地に到達しなさい。
(Ⅳ)法念処
肉体、感覚、そして心以外のすべての現象もまた、原因と条件の相互依存によって生じており、それゆえに真の実在性を欠いているということを、確信を持って認識しなさい。すべての現象はただ、入念に創られた種々雑多の観念を超越した空性であるに過ぎないと理解しなさい。