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覚醒の太陽(17)

 さて、いよいよこの禅定の章における、「自他転換」の教えも、架橋に入ってきました。

 次の部分は、この論書における非常に重要な部分です。そしてこの部分は、さまざまな解説書を見る限り、さまざまな解釈がなされているようです。その中には、私の解釈とは全く違う解釈もありましたが、ここではあくまでも私が正しいと感じる解釈でまとめさせていただきます。

 まず以下に一まとまりの本文を長めに載せますが、この文章において、「この者」「彼」とは、自分のことを指しています。そして「私」とは、自分以外の全ての衆生のことを指しています。

 つまり、この前までの部分で展開されていたように、「他の衆生」を自分とみなし、「自分」を他者とみなす「自他転換」の教えの、実践例がつらつらと展開されているわけです。

 既述のように、この教えにおいて、「全ては一つ」「自他の区別はない」という考えは必要ありません。
 そもそも「自他の区別はない」というその境地というのは非常に高い悟りの境地であり、頭でその言葉を理解したからといって、実際はその意味を本当に理解できているわけではありません。しかしそうであっても、「自他の区別はない」という観点から、心の訓練と日々の実践を続けていくのが、「自他の平等視」の教えですね。これはこれでとてもすばらしいと思います。
 しかし「自他転換」の場合は、どうせ真に悟りを得るまでは、自己を大切にし、他者を大切にしないという、エゴの欺瞞性は最後まで残るわけですから、その自他の不平等視、A(自己)を徹底的に愛し大切にし、B(他者)は不幸であれ、というエゴのおろかで汚い部分が依然として存在するのを認めた上で、そのAとBを入れ替えなさいと言っているわけです。

 私がなぜこの教えを絶賛するかと言うと、私自身、この教えを実践してみて、非常に効果があったからです。この部分のみならず、この入菩提行論というのは、まさに実践者向きの教えであると思います。単に言葉を追いかけるよりも、本当に修行して、仏教の奥義、菩薩の道を究めたいと考えている人にとって、この入菩提行論というのは、非常に大きなインスピレーションと実際の効果をもたらしてくれるでしょう。

 この「自他転換」の教えも、もちろん、実際は完璧に「自他転換」ができるわけではありません。あくまでそれは、心の中でのイメージ、思考の訓練に過ぎないといっていいでしょう。
 しかし、まあ、「自他平等」というのは数字で表せるものではありませんが、仮に「自他平等の境地」を、「自分50:他者50」の境地だとします。そして現実的な自分の意識を、「自分99:他者1」だとします。
 この人が、「自他平等」の教えを聞いて、納得し、「自他の平等視」の修行に励んだとします。つまり、99:1を、50:50に近づけようとしたとします。
 しかし実際に50:50にいたるのは、非常に難しいでしょう。たとえば10年間、「自他平等視」に励んだとして、99:1が、95:5とか、90:10くらいにでもなれば、それはもう大成功と言っていいと思います。
 それに対して、「自他転換」の教えは、「50:50」ではなくて、「自分0:他者100」を目指しているのです。いや、もっといえば、「自分-20:他者120」位かもしれません(笑)。しかしこれくらいハードな点を目指して、やっと、99:1が、80:20とか、70:30とかになっていくんですね。
 だからこの教えももちろん、方便というか、テクニカルな教えといっていいでしょう。「自他転換」といっても、本当に自他転換が達成されるわけではなく、意識の中で「自他転換」の思考を練習するうちに、「自他平等視」よりもスピーディに、「自他平等」に近づくというわけです。

 といってももちろん、人にはいろいろなタイプがありますので、全ての人にこの「自他転換」の教えが合うというわけではないかもしれません。ですからこれは、気に入った人が実践してみたらいいと思います。
 また、この「自他転換」の真意を取り違えると、卑屈になったり、悪い意味での自己否定に走る人もいるかもしれません。そうなったらマイナスですね。だからこの教えの実践には、ある程度の智慧と、教えに対する信、そしてそもそも自分はこの道を究めたいのだという強い求道心が必要ですね。

 さあ、前置きが長くなりましたが、「自他転換」の実践例に入っていきましょう。

 繰り返しますが、この本文において、「この者」「彼」とは、自分のことを指しています。そして「私」とは、自分以外の全ての衆生のことを指しています。そのように頭の中で変換して、お読みください。つまり自分を他者の位置において、まるで客観的に他人を観るように、「この者は・・・」と、自分のことを述べているわけです。

「小劣な者があればそれらを自分とみなし、また自我を他人とみなして、心に分別を加えず、嫉妬と傲慢とを、(次のように)観察すべきである。

「この者(=自分)は敬われ、私(=他者)は敬われない。この者は所得があり、私はそのようにない。この者はほめられ、私は非難せられる。私は苦しみ、この者は楽しむ。
 私は仕事にいそしんでいるのに、この者は安らかに休んでいる。確かにこの者は世間において偉大であり、私は卑しく徳がない。
 徳なき者はなんの役に立つか。全ての人の自我は、徳を備えている。人あれば、それに比べて、私の方が卑しい場合もあり、また勝っている場合もある。
 私の徳行と見解とに、欠けるところ等があれば、それは煩悩の力による。私の力によるのではない。できうれば私は癒されねばならぬ。私は(そのための)苦痛を忍受する。
 この者にとって私が癒しがたいとしても、何ゆえに彼は私を侮辱するのか。この者は有徳でも、その徳が(彼に限られるなら、それは)私に何の用があるか。
 人が悪趣という猛獣の口にあるのに、この者は全く哀れみをもたない。しかも徳におごって他の賢者を凌駕しようと望む。
 彼は、自分と等しい自我を見て、己の優越を増すために、争いによってすら、自己の所得と尊敬を勝ち得ようと、努力するであろう。
 私の徳は世間いたるところで、表明せられたいものだ。また、いかなる徳がこの者にあっても、それについて誰も聞かないようにありたい。
 私の過ちは隠されてありたい。私には尊敬があり、この者にはそれがないようにありたい。いまや私に所得は得やすい。私は敬われ、この者は敬われない。
 ついに我々は、彼が虐待せられ、全ての人々に笑われ、ここかしこで非難の的になっているのを、はなはだ喜んで見る。
 この惨めな状態において、この者は実に私と競おうとしている。この者にそれをなすほどの博学、智慧、美、家柄、財があるか。」--と。

 かように、自分の徳があちこちで称賛されるのを聞いて、身の毛もよだつほどに喜び、私は安楽歓喜を味わうであろう。

 またこの者に所得があるなら、我々は力を用いてそれを掴み取るべきである。ただし我々の仕事をこの者がするならば、生命の糧だけは給与して。」

 さあ、ここは、できるだけ読み違えをしないように、本文の前に、この読み方を長めに解説しました。あとは各自で読み、その意味を思索し、できれば実際にこの内容を自分に当てはめて瞑想してみたり、あるいは実生活の中でこのようなイメージで活動してみてください。

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