要約「シクシャー・サムッチャヤ」(30)「すべてを超える楽のサマーディ」
◎すべてを超える楽のサマーディ
ピタープトラ・サマーガマ(父子集会経)には、こう説かれている。
「もし菩薩が『すべてを超える楽のサマーディ』を得れば、いかなる条件下においても至福を感じる。
たとえばもし誰かに手足や耳や鼻を切断されたとしても、その菩薩は至福を感じる。
鞭や杖で打たれたとしても、至福を感じる。
牢獄に幽閉されたとしても、至福を感じる。
熱湯で煮られたり、火で焼かれたりしても至福を感じる。
ライオンの口に頭を放り込まれても、至福を感じる。
もろもろの生命の損害を受けても、たとえ殺されても、至福を感じる。
なぜならば、この菩薩は、次のような誓願を、長い間行なってきたからである。
『もし私をもてなす者があれば、彼は素晴らしい至福を得ますように。
もし私を保護する者があれば、彼は素晴らしい至福を得ますように。
もし私に悪口を言い、私を刺し、打ち、殺す者があれば、彼は覚醒の至福を得て、無上の最正覚を成就しますように。』
このようにして菩薩が『すべてを超える楽のサマーディ』を得たならば、大不動を得て、もろもろの魔事を破壊する。
ゆえに、一切の捨と布施を完成し、一切の難行苦行を成就し、一切の忍辱と精進を堅固にし、一切の禅定と智慧をよく修習し、常に喜ぶべし。」
チャンドラプラディーパ・スートラ(月灯経)には、こう説かれている。
「常に喜び、尊重し、常に正しい見解に住すべし。」
◎喜の状態
では、何をもって喜とするのか。
喜とは、清浄なるダルマを念じ、信じ、楽しみ、決意し、勇躍心を発し、怠惰にならず、もろもろの悩みなく、五感の対象を求めず、一切の法楽を離れず、身体の喜びと覚醒の喜びを確立する。法を求め、法を聞くことに飽きることなく、法行をよりどころとする。法によって喜を生じ、法を愛し、楽しみ、決意し、浄信を持つ。このようにすれば、衆生は障害なく悟りを得る。
最高の欲をもってブッダの法を激しく求め、法に対する欲を捨てない。広大なるブッダの素晴らしき法を信じ、菩提心を起こして、物惜しみやケチな心を取り除く。
布施する自分も、布施の対象も、布施の行為もすべて一つであると見ながら、歓喜して布施をする。
素晴らしき戒に関してもまた、常に清浄にして、清らかな戒を守る。悪道に落ちる恐怖を超越し、ブッダへと向かう戒を、常に堅固に守る。
悪人がやってきて自分を罵倒・侮辱しても、報いを返さずに忍辱し、傲慢を捨てる。よこしまな心を持たず、清らかな心を保つ。
菩薩に対してはブッダの如く敬い、法は自己のごとく敬い、衆生を一人子のごとく見る。
師をブッダのように敬い、もろもろのパーラミターを自己の手足のように愛する。
法を説く師に対してはもろもろの素晴らしい宝物のごとく見る。
もろもろの教えに対しては、まるで凡夫が五感の対象に親しむように親しむ。
最高の快楽を求めるような強い想いで、素晴らしい法を求める。
このように自己を調御して、怠惰を捨てる。これを喜というのである。
-
前の記事
善意と純粋さとが -
次の記事
要約「デーヴィー・マーハートミャ」第七章 チャンダとムンダの討伐