菩薩の道(5)その7「第二禅」
菩薩の道(5)その7「第二禅」
原始仏典群、それは省略されていないものをしっかりと読むと、いろいろ細かい部分を変えただけで、同じ内容が繰り返し繰り返し説かれているのがわかります。しかもそれは、定型的な、たとえば八正道にしろ、他の項目にしろ、ある数に当てはめ、非常に定型的な感じで、教えがまとめられています。
これは深い意識に入ったときに、思い出しやすくするためだと思いますね。実際それは私も実感しています。私はよく仏典を声を出して読んでいて、その後、深い瞑想に入ったとき、細かい記憶とかは出てこないんだけど、その定型的な表現がバーッと出てくるんですね。そして思考の基礎ができるという感じなんです。だから仏典を、日本語に訳したものを、声を出して繰り返して唱えるというのは、すごくその後の瞑想にとって利益になる修行になると思いますね。
さて、今度は第二禅に入りますが、第二禅は簡単にいうと、清らかな信が心の奥に確定された状態で、心が止まり、思索も検討もすることなく、ただただ深い精神集中によって、初禅と同じ「喜び」と「楽」を得る段階、これが第二禅です。
つまりもちろんこれは初禅において、深い意識化での思索および観察および検討および修正によって心の奥が整理された後に生じる段階です。そのある程度、完全ではないけれど整理された状態で、強烈な精神集中を行なう。そしてその精神集中から、強烈な「喜び」と「楽」が生じるんです。
これについても私は多くの経験があります。
さて、この第二禅は別としても、瞑想における精神集中についての話を少ししましょう。
われわれの雑念というのは、どんどん展開する要素を持っているんですね。
たとえばふっと、瞑想中に、頭の中にパンが思い浮かんだとします。それがどんどん展開して、ああ、パンっていいよなあ、とか(笑)、あのときのあのパンはこうだったなとか、そういう場面が浮かんだりとか、そのパンにまつわる薀蓄が浮かんできたりとか、こういう感じで、この人はいつの間にか、パンの瞑想をしていることになります(笑)。
ではどうすればいいのでしょうか? 雑念撃退の第一の方法は、「ほっとく」という方法です。
つまり、「雑念を何とかしよう」とも思ってはいけないのです。雑念が出たなら、出るままに任せるのです。そして勝手に消えるのを待つのです。
瞑想時の雑念とは、いたずらっ子のようなものです。たとえば瞑想中、いたずらっ子がやってきて、あなたの頭をたたいたり、鼻に指を突っ込んだり(笑)、騒いだり、いろいろしたとします。それは注目を浴びたくてやっているのですが、そこで、「こら!」とか、「やめろ!」と言ったり、あるいは叩いたり、そんなことをすると、このいたずらっ子は逆に喜んで、もっとちょっかいを出してきます。だから無視が一番いいのです。何されても全く反応せずに無視していれば、そのうち飽きて、「ああ、この人はかまってくれない」と思い、いたずらっ子はどこかへ行ってしまいます。
雑念もそれと同じです。「雑念を消そう」とさえも思わず、なすがままにほうっておけば、自然に消えるのです。
もう一つの方法が、これは高度な方法なのですが、雑念そのものに集中する方法です。
雑念に心奪われ、雑念が「展開」してしまうのは、集中力がないからです。ぼーっとして考えているからです。
雑念に集中するというのは、もちろん、たとえばパンのイメージが出てきたら、パンについて真剣に考えるという意味ではありません(笑)。そういう思考を排除し、連想を排除し、ただ純粋にその想念に集中するのです。
瞑想に慣れていないと、あるいは集中力がないと、すぐにこの想念は「展開」します。しかし瞑想になれ、集中力が強まると、この雑念に集中することにより、その雑念は「展開」ではなく、もと来たところへと帰っていきます。そしてそれによって、逆にその雑念をきっかけにして、心の本質にたどり着くこともできるのです! なぜなら、雑念さえも、心から出てきているわけですから。それをきっかけに、心の本質を探り出すことも可能なのです。
実際にこれは経験できることです。非常に面白い瞑想です。雑念に集中することで、それをきっかけに、心の奥へ奥へと入っていくのです。雑念様様という感じですね(笑)。
話を戻しますが、第二禅は、こういった、思索無しの、ただただ純粋な集中による瞑想が中心になります。ヨーガでいうとラージャ・ヨーガ的ですね。
もちろん、繰り返しますが、その前に、思索により整理された心、強烈な集中力、それをサポートする功徳の光と悪業の減少などの要素がないと、無理です。
しかしそれらの要素がそろえば、何も考えることなく、ただ集中するだけで、深い喜びと楽に満ちた瞑想に入れるでしょう。
思索しないといっても、それは「無」ではありません。透明な輝きと至福と心の停止を伴った世界です。しかしもちろんこれもまだ最終の悟りではありません。
そしてこの第二禅の世界は慈悲の世界なので、慈悲の心を育てることも、この第二禅に入るには有効でしょうね。