菩薩の道(1)「布施と歓喜」
大乗仏教の実際的な修行プロセスとしては、六波羅蜜が有名だ。大乗仏教(マハーヤーナ)自体、波羅蜜乗(パーラミターヤーナ)と呼ばれることもある。また、菩薩乗(ボーディサットヴァヤーナ)と呼ばれることもある。
そして大乗仏教の理想的人格である菩薩(ボーディサットヴァ)には、菩薩の十地と呼ばれる、十段階のプロセスがあるといわれる。そしてこれに対応するのが六波羅蜜をさらにグレードアップさせた十波羅蜜だ。
さて、この十地および十波羅蜜にはさまざまな解釈があります。
ちなみに、十波羅蜜と名前がつく修行も、内容が違うものが多々あります。私が知っているだけでも、三種類はあります。
しかし、ここでは「十地と十波羅蜜」とはなんなのかを、学術的に語るということはしません。そうではなくて、「十地と十波羅蜜」というテーマを利用して、あくまでも私が考えるところの菩薩の修行の道を、表現してみたいという感じです。
つまりこの話の中には伝統的解釈だけではなく、私の経験や思索から来る内容がかなり入っているということはお断りしておきます。
1.布施の完成--歓喜
菩薩の第一段階は、「歓喜」と呼ばれる。
そしてここに対応するのが、布施波羅蜜の修行だ。
これはなんなのか。そしてなぜそれが「歓喜」の境地を呼ぶのか。
ここでいう布施とは、たとえばお寺にお金をお布施するとか、そういうことをさすわけではない。
端的にいえば、「自己の幸福を衆生のためにすべてささげる」ということではないかと思う。
それが菩薩の修行のスタートだ。
つまりこれは、「慈愛の実践」というのとほぼイコールなのではないかと思います。
具体的にこの布施の実践としてあげられるのは、いろいろ考えられる。
・他者の幸福のために奉仕をする。
・生き物の命を救う。
・貧しい人にお金や食べ物を分け与える。
・人々に真理の教えを与える。
・人々の修行の手助けをする。
・衆生の救済のために自分のプライドその他をささげる。
・衆生の救済のために自分の時間、人生をささげる。
・人々に、修行の実践から来る歓喜を与える。
・苦しむ人の心に安心を与える。
・仏陀、聖者、神々、菩薩や自分の師などに対して財物その他を供養する。
箇条書きにするとこういったものが考えられるが、日常から常に、他者の幸福のために自己の幸福を差し出そう、という心構えが大事ではないかと思います。
ところで、この波羅蜜(パーラミター)という言葉の意味については、さまざまな解釈がありますが、ここでは「完成」という説をとりましょう。
つまり「布施のパーラミター(完成)」という場合、「他者のために自己の幸福を差し出す」という実践を、適当に行なうのではなく(もちろん最初は徐々にでいいのですが)、完成に向けて全力で行なっていくということですね。
そして、これによってなぜ「歓喜」が生じるのか。
それはまず第一に、このような菩薩の道に入ったのだと、幸福をすべて差し出す生き方をしようという覚悟が出来たとき、とてつもない歓喜が生じます。
第二に、常にこういった心構えを培うことで、それそのものがまたものすごい歓喜を生じ続けさせます。
そして第三に、こういった布施・慈愛の実践により、実際に徳が増大し、自己執着が減少します。
この徳の増大と自己執着の減少は、ものすごい歓喜を呼びます。
なぜなら徳とは物理的な歓喜のエネルギーの源であり、自己執着は歓喜を止め苦を増大させる原因だからです。
これは道徳的なことを言っているのではありません。現実的・物理的にそうなのだということをお断りしておきます。
また、こういった歓喜は、単に精神的な喜びというだけではなく、精神的にも肉体的にもはっきりと生じる、物理的・実際的なエクスタシーです。
たとえば布施の一つの形である、聖者や仏陀に供養をするということを瞑想上で行なう修行があります。私はこの供養の瞑想を数回行なっただけで、失神寸前の、体が固定されてしまうような歓喜に襲われることがあります。
あるいは、衆生の苦悩を吸い取り、幸福を差し出すことを瞑想で訓練する「トンレン」という瞑想があります。私がこの修行を集中的に行なっているときは、呼吸そのものが強烈なエクスタシーになってしまい、息を一息吸ったり吐いたりするたびに、のけぞるようなエクスタシーに襲われ、困ったことがあります(笑)。
ところで、仏教では色界の第一カテゴリー、あるいは真の瞑想の第一カテゴリーは慈愛の世界であり、かつそれは喜と楽の境地であると定義されています。
ということは、それもやはり対応するのではないかと思いますね。つまり、菩薩の道を歩むことを決意し、自分の幸福を他者に差し出すという慈愛の実践によって歓喜に満ち溢れた境地。それが菩薩の第一段階なのではないでしょうか。