脈管・気・心滴の秘儀
体中のナーディーを気がめぐる。
この気は馬のようなもので、それに意識が乗っている。
気は体中をめぐるが、実際はナーディーはあちこちで詰まっているので、気が動きやすい・充満しやすい領域と、気が通いにくい領域がある。
意識がナーディーのどの領域にあるかによって、その人の意識状態が決まる。
意識は常に気の馬と行動を共にするので、気の流れがどこに集中しているかによって、その人の意識状態は決まるということだ。
ナーディーは、過去のカルマ、過去の経験から来る心のけがれ、観念によって、詰まる。
その詰まった場所によって、気の流れの滞る場所が決まり、それがその人の性格や、観念、考え方の限界、苦しみや幸福等を決定する。
普通は、このナーディーの浄化=カルマの浄化をすることはないので、その人の思考パターンや、苦しみや幸福のパターンは、なかなか変わらない。
よって修行が必要になる。
まず教えを学ぶことや戒律を学ぶこと--これによって『教え』や『戒律』という『観念』が形成され、この『観念』が、我々の悪しきナーディーを詰まらす。
つまり、悪しきナーディーが真理という観念によって詰まることにより、悪しき思いや苦しみが起きにくくなるのだ。
そしてさまざまな修行によって、高い世界へ向かうナーディーを浄化し、解放していく。
たとえばジュニャーナ・ヨーガ=教えによる自己分析によって、過去の観念を破壊する。
たとえばカルマによって日々生じる苦しみを喜んで耐えることによって、ナーディーを詰まらせているカルマが浄化される。
たとえばクンダリー・ヨーガによって、アムリタが体中を満たすことによって、物理的にナーディーの詰まりが浄化される。
たとえば菩薩行によって、衆生の苦悩を自己の苦悩と見、衆生の幸福を自己の喜びと見ることによって、最も速やかにナーディーが浄化される。
この途中の段階においては、高い世界のナーディも解放されてきたが、低い世界のナーディにもまだ気がめぐりやすい、という段階がある。
この段階においては、一種の精神分裂が起きる。あるときは崇高な意識状態になるが、あるときは煩悩的になる。あるときは悟りや菩薩行に心が向かい、あるときはエゴでいっぱいになる。
そこでより一層教えを確定させ、常に仏陀や神や高い世界を意識し、菩薩行に励むことによって、ナーディーはどんどん上へ上へと解放されて行き、最終的に頭頂=サハスラーラに到達する。
到達しただけでは駄目で、完全にサハスラーラを崩壊させる必要がある。
そのときエネルギーと意識は、輪廻を超えた世界、解脱の世界へと解放される。
この先は、二つの道がある。
一つは、そのまま意識を抜け出させ、解脱の境地に浸ること。
もう一つは、全ナーディーの完全浄化である。
全ナーディーを完全浄化しなくても、解脱はできる。
しかしその場合、低いナーディーの領域にエネルギーや意識が集中した場合、心が乱れ、煩悩や苦しみが生じるので、衆生救済の菩薩行はできないということになる。
よって菩薩行においては、あらゆる現象を受け入れ、あらゆる現象を四無量心によって対応し、常に菩提心を持ち、常に自分の身体・言葉・心を、衆生の幸福のためにのみ使う実践をする。
これによってナーディーが完全浄化されたとき、あるいはそれに近い状態になったとき、
その人は、たとえ気や意識が低いナーディーの領域に至っても、全く煩悩も苦しみも生じず、ただただ四無量心と菩提心と至福感のみがある人生となる。
別の言い方をすれば、その菩薩は、地獄に落ちても至福なのだ。
ここにのみ、完全な智慧と自由と至福がある。
これが、個人ための修行と菩薩行、限定的な解脱と完全な解脱の違いである。
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