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聖者の生涯「ナーロー」④(2)

◎腸を切り刻む男

【本文】
 再びナーローが旅を続けていると、人間の死体から腸を引き抜き、細かく切り刻んでいる男に出会いました。ナーローが、グル・ティローを見なかったかと聞くと、男は、
「見たよ。でも教える前に、俺を手伝ってくれ」
と言いました。しかしナーローが断ると、男は虹の光を放って舞い上がり、こう言いました。

『無所縁(心が働きかける対象がない)の領域において
 輪廻の束縛を
 究極の実在の無起源性によって
 断ち切らないのであれば、
 どうしてグルを見出せようか。』

 男は消え、ナーローは気絶して倒れました。

 このナーローの生涯の物語は、一つのただの伝記ではなくて、修行の真髄を書いた――これは『ミラレーパの十万歌』とかもそうだけどね。伝記であると同時に奥儀書であるっていうかな、そういうものなんですが。
 実際これはあまり――例えば「心の訓練」とかああいうのはね、いろんな、ダライ・ラマを始めとしていろんな人がテーマにして出してるけれども、このナーローの生涯の話ってあんまり、まあ何冊か出てますけども、そんなに世界でも出てるわけではない。ただいくつかの本でね、いくつかの聖者とか学者がいろんな解説をしています。だから解説っていうのは一つの説です。ですから今日わたしが話す話も、一つの説ととらえてください。 
 ――っていうのは、こういったテキストっていうのは奥儀書的なものでもあるので、で、同時にみなさん自身が、『ミラレーパの十万歌』とかもそうだけどね、修行が進むたびにそのより深い意味を悟っていけばいいっていうかな、そういうものなので、あまりガチガチに、これがこういう意味で確定であるというふうに確定させる必要はない。だからあくまでも一つの説として聞いてくださいね。
 はい、ここの場面はまず、死体から腸を引き抜き、細かく切り刻んでる男に出会ったと。で、これはいつも同じパターンなんだけど、「グル・ティローって知らないか?」って言うと「見たよ」と。「でも手伝ってくれ」と。でもナーローは断るわけだね。
 はい、これをリアルにちょっとイメージしてみましょうね。てくてくとこう、グル・ティローはいないかなって歩いてたら、なんか男がいると。何やってるのかなって見たら、死体のお腹から、お腹を切り裂いてね、中から腸を引き取って、それを切り刻んでいると。「何やってんだ!」と(笑)。で、「わたしはグル・ティローっていう聖者をを探してるんですが、知りませんか」と。「いや、知ってるよ」と。「でも、その前にこれ手伝ってくれ」と。
 はい、みなさんならどうしますかね。ナーローはここで断ります。つまりそれは、単純に気持ち悪いのかもしれない。あるいは昔のインドだから、非常にね、不浄感って強いんですね、インドってね。いつも言うように、例えばインド人が例えばジュースとか回し飲みするときっていうのはこう、決して口をつけない。もう本当に習慣っていうかな、もう本当に根付いてるそういった不浄感がある。つまり人間の口っていうのは不浄であるって考えがあるから――よくわたしは高校時代とかね、柔道部とかにいたんで柔道とか練習の後とか、もう回し飲みするんだね。スポーツドリンクとかを。まあちょっと内心汚いなって思ってたけどね(笑)。みんな、だって、汗だくのさ、ハァーってこう男くさいみんなで、その人たちがプハーってこう回ってくるわけですよ(笑)。「えーっ!?」ってちょっと思っちゃうけど(笑)、でもまあいっか、って感じでこうやってたんだけど(笑)。でもインドでは、人間の口が付いたものなんていうのは非常に不浄であると。だからこの中でも前生インドとかにいた人は、結構そういうのに敏感な人もいるかもしれない。それはまあ一つの習慣なんだね。あるいは他にもね、インド独特の「これは不浄である」っていう観念があって、その不浄なるものには決して触れてはいけないし、もう触れたり――死体とかはもちろんそうですね。もういったんそれに触れたりしたら徹底的に、例えば沐浴したり、体洗ったりして浄化しなきゃいけないみたいな観念があるんだね。だから恐らくナーローも、その不浄感が強かったんでしょう。

◎われ以外皆わが師

 まあそんないろんな理由でね、それを断ったと。そうしたらその男が、虹の光を放って舞い上がり、そしてこの詞章をね――

『無所縁(心が働きかける対象がない)の領域において
 輪廻の束縛を
 究極の実在の無起源性によって
 断ち切らないのであれば、
 どうしてグルを見出せようか。』

っていう言葉を唱えて、消えるわけですね。

 はい、何度も言うけども、この最初の方でナーローは、そうとは思わなかったんだけどある現象を経験して、それが実はグル・ティローの現われであったということに気づいて、で、決心するわけだね。これからは何に出会ってもグルだと見て教えを乞うぞと。ね、決心するのに、何度も間違う。ね。
 これは、われわれに当てはめて考えてみると、われわれもナーローと同じ気持ちになることができます。
 これは何回か言ってるけど、昔わたしがね、好きだった「宮本武蔵」っていう小説。まあ小説っていうか実在の人物ですけど、よくわたしは小説を読んでね、好きだったんです。最近は漫画がとても流行ってるそうですけど、その宮本武蔵の――宮本武蔵の言葉だったか、作家の吉川英治の言葉だか忘れたけども――『われ以外皆わが師』っていう言葉があるんだね。これはよくヨーガのカルマヨーガにも通じる言葉だと言われてる。「われ以外皆わが師」と。ここでいう「われ以外」というのは、もちろん自分以外の他人ともいえるし、人間以外の現象も含めてね、それはわたしの人生におけるすべてのことは、すべてわが師であると。
 ここでいう「わが師」っていうのは、二つの方向性の意味があると思います。一つは単純にね、言葉通り、すべてを自分の師と考えると。すべてからいかに学ぶかっていうのが一つ。
 もう一つは、本当に師の現われなんだっていう考え方ね。それはさっき言った至高者っていう意味でもいいけども。まあ密教とかの世界では、あまりそういう神っていう言葉とか使わないから、師匠ね、グルっていうのがすごくクローズアップされるわけですが、師匠っていう意味でいったらね――つまりちょっとぶっ飛んだ考えになるかもしれないけど、こういうことです。つまり、この世には実は、この世界では実は、わたしとわたしの師匠の二人しかいないっていう考えなんだね。実は二人しかいない。で、いや、そうではなくて日常で現われるいろんなね、多様に見えるいろんな人々とかいろんな現象とか世界を自分は経験してるように思ってるんだけど、いや、それはすべて師匠が姿を変えて、自分を導くためにいろいろやってるに過ぎないんだっていう考えがある。
 もちろんこれはヒンドゥー教的に、それを神と考えてもいいよ。神が、唯一の神、ただ一人の神だけがいらっしゃって、ただ一人の神が自分を導くために、いろんな形を変え、あるいはいろんな現象を現わして、自分を導いてると。
 これはラーマクリシュナの話にはそういう話がよく出てくるんだね。例えばラーマクリシュナが神への狂気に狂ってね、「おお神よ!」ってやってるときに、いろんな人がラーマクリシュナにそれをやめさせようとやって来た。つまりみんな理解できずにね、ラーマクリシュナのその悟りを理解できずに、「そんな狂ったようなことをするんじゃない!」みたいな、止めに来るわけだけど、ラーマクリシュナはそこで笑って「おお神よ!」と。「あなたがそんなふりしてもわかりますよ」って(笑)――つまり、「神が反対者の振りしておれを止めに来た」みたいな感じで、こう見てるんだね。
 あるいはラーマクリシュナがあるとき馬車でね、走ってたら、馬車で走ってたら、いわゆる遊女っていうか、街で立って客を探してる売春婦がいたわけですね。これもヒンドゥーの伝統では、そういった売春婦とかっていうのは非常にけがらわしいものと見られる。だから普通のヒンドゥー教の高い聖職者とかだったら、「ああ、見るのもけがらわしい!」ってなるんだけど、ラーマクリシュナはその売春婦を見て大笑いしたんだね。「ああ、マーよ!」と。つまり母なる女神よと。「今日は本当によく化けていらっしゃいますよね」と(笑)。「今日はそんな売春婦のふりをして、無駄ですよ」みたいな感じで(笑)、こう言ってるんだね。
 だからラーマクリシュナにとっては、もうすべてが聖なる神の現われとしか見えなかったと。
 これはもちろん大聖者だからそうなるわけだけど、われわれはまだ自然にそう見えるまではいってないが、そういう訓練をする。すべては自分の師の現われであると。

◎何度失敗しても思い続ける

 でもね、このナーローと同じように、この話っていうのは、こういう話っていうのはみなさんも一回は聞いたことがあるかもしれない。すべてを師と見なさいと。あるいは考えたこともあるかもしれない。でもすぐ忘れるでしょ? ナーローのようにね(笑)。
 例えばある出来事があって、そこで苦しんだけども、苦しんで苦しんで、でも学んだとするよ。例えばT君がYさんになんか意地悪なこといっぱいやってきて、Yさんはもう苦しんで苦しんだけども何とか乗り越えて、で、そのときに、「ああやはりすべては神の現われであった」と。「T君も神の現われであった」と。「よし、これからは何があっても同じように神の現われとして生きよう」と。「すべてから学ぼう!」ってそのときは感動するんだけど、もう、一晩寝たら忘れます(笑)。一晩寝たら、今度はIさんとかが意地悪してきたら、もうまた悲劇のヒロインにこう戻ってしまうんだね(笑)。「もう、なんでわたしはこんなに……」って。これが人間の馬鹿なところで、つまりナーローでさえそうなんだから、われわれもまあ、そうなってしまうんだね。
 でもそれでも何度も何度も自分をこう引き戻してね、すべては神なんだと、あるいはすべてはグルなんだということを、何度失敗しても思わなきゃいけないんだね。
 つまり別の言い方をすると、決して自分に――例えばいろんな嫌なことやってきたり、あるいは逆に執着してしまったりとか、そういったいろんな人や対象を、実体のある対象として実体視してはならない。自分とは違う何かがボーンと現われて、それが自分に苦を与えているとか、あるいは自分に喜びを与えているとかっていう錯覚に陥ってはいけない。何度も言うけども、すべては神が現わしたマーヤーであると。ね。幻のようなものであって――もちろんそれは意味のある幻なんだけどね。つまりわたしを導こうとしている幻だと。よって、そこからいかに何かを学ぶか。ね。あるいは、いかにそれによって自分を改革し、自己改革し成長していくか――ということを考えないといけない。決して、「いや、この人はこうだからこうなんだ」っていうような、実体視したような考えをしてはいけないわけですね。 

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