yoga school kailas

縁起の法と平等心

「縁起の法と平等心」

 ある朝、夜明けにひらめいたこと。
 
 まず眠りから目覚めたとき、ふと、四無量心の平等心について考えていました。
 チベット仏教では、四無量心の四番目を『平等心』として、まず一番最初に修めるべきとされています。しかし原始仏教では四無量心の四番目は『捨(ウペッカー)』であり、一番最後に修めるべきとされています。
 これに対して思いをめぐらせていたとき、
 
 あ、チベット仏教でいう平等心は「好き嫌いの平等」であり、原始仏教でいう捨は「苦楽の平等」だ。
 あれ、修行って結局、様々な意味で平等になっていくことなのかな。
 お釈迦様が説いた、欲界を超えて色界に入り、無色界に入り、ニルヴァーナに駆け上っていく解脱のプロセスは、12縁起の法にのっとって、様々な平等心を培い、原初に帰っていくプロセスなのかな。

 ・・・などというインスピレーションがわきました。

 ちょっと簡単に説明してみます。

 まず簡単に、12縁起をまとめてみましょう。

①無明→②行→③識→④名色(五蘊)→⑤六処→⑥触→⑦受→⑧愛→⑨取→⑩有→⑪生→⑫老死

 さて、まず修行のプロセスとしては、徳を積み、戒を守ることによって、悪趣の縁を切り、天へと至ります。しかしまだこの段階で至る天は欲界の天界どまりであり、それは限定された六道輪廻の中で良い道を選択したに過ぎません。

 欲界の輪廻を超えてまず色界に至るには、欲界の「有」を超えなければなりません。そのためにはその前にある「取」を超えなければなりません。

 ⑧愛とは簡単にいえば、好き・嫌いの感情です。それが「取」になったとき、それは強固な「とらわれ」となります。つまり、それがないと我慢できないような精神状態となります。つまりこれは「貪り」ですね。
 実はわれわれはこのとらわれ、貪りによって、この欲界に結び付けられているのです。
 「これがないと嫌だ」「こうならないと嫌だ」「こうでないと生きていけない」・・・このような意識が、小さなことから大きなことまで無数にあり、それらがわれわれを欲界に結び付けています。

 よってわれわれはまず、「取ることと取らないことの平等心」によって、この取を超え、欲界を超えなければなりません。つまりこの段階では、まだ完全に対象に対する好き嫌いの感情を克服したわけではありませんが、少なくとも様々な対象がカルマによって自分の前に現われたり消えたりするがままにしておき、「これがなければやっていけない」ということを超えることです。
 この段階では、カルマヨーガや、精神的な不所有・知足の修行がとてもいいと思います。つまり自分の人生のすべては神やブッダの愛で守られていると考え、自然に与えられたもので満足する訓練です。

 こうして貪りを超え、欲界を超え、色界に入ると、四無量心の深化のプロセスが始まります。この基礎において、チベットでは「平等心」が置かれているわけですね。
 ここでの「平等心」とは、「好き嫌いの平等心」です。なぜなら、四無量心における愛とか哀れみとかの定義は、無条件の愛であり哀れみなのです。無条件ということは、あの人は好きだから愛するけど、あの人は嫌いだから愛せない、ということが、塵ほどもあってはならないのです。完全にすべての例外なき、すべての衆生への愛でなければなりません。
 そのためには十二縁起の8番目の「愛」を超えなければなりません。この愛は「渇愛」であり、エゴに基づいた好き嫌いの感情に過ぎないからです。よってここで、真の慈愛を得るために、「好き嫌いの平等心」を身につけるのです。

 こうして平等な眼で衆生を見、四無量心を育てつつ色界を上がっていくわけですが、その最高の世界は、「苦楽を超える世界」といわれます。つまりここで出てくる「捨」とはまさに、「苦楽の平等心」なわけですね。つまり十二縁起の⑧愛からさらに一つさかのぼり、⑦受を超えるわけです。「受」とは苦楽の評価ですから。

 そうして無色界に入った修行者は、まず「空無辺」という境地に入ります。
 空間が無辺である。つまりこれは私は、「自と他の平等心」ではないかと思います。
 空間という概念こそが、もともと区別できないものに区別をもたらしているわけですから。
 つまりこれは④名色・⑤六処・⑥触などを超えるプロセスといってもいでしょう。
 
 次に修行者は、「識無辺」に入ります。
 つまりこれは③の「識」の超越ですね。
 つまり「これはこうである」「あれはああである」といった、行によって生じる固定的な識別作用の超越です。つまりそれは「こうであるとかああであるとかの平等心」といえます(笑)。

 次に修行者は、「無所有」の境地に入ります。
 この辺は難しいので簡単にいえば、行すなわち縁起の流れというかカルマの流れというか、そういったものに対する実在意識そのものの超越ではないかと思います。
 これを超えるということは、時間の超越、すなわち過去と未来と現在といった観念を平等に見、超越することを意味するのではないかと思います。

 次に修行者は、「非想非非想」の境地に入ります。
 これも私見になりますが、これは低い解脱の超越ではないでしょうか。
 つまり単に想いが滅して無になっただけの低い解脱ではなく、より高い解脱に至る為には、その「無」への執着も超えなければいけません。つまり「想いがあることとないことの平等心」ですね(笑)。

 そして最終的なブッダの境地においては、智慧によって輪廻を超え、慈悲によってニルヴァーナを超える、つまり「輪廻とニルヴァーナの平等心」の境地である「無住処ニルヴァーナ」の境地に至るわけですね。

 いかがでしょうか(笑)。最後に、「区別」と「平等」という観点から、この12縁起とそこからの解脱のプロセスを簡単にまとめてみましょう。

 単なる縁起・カルマ・経験の流れに過ぎないもの(行)を実体視することによって縁起の法が始まります。これは本来自由な魂が、変化、すなわち「時間」に束縛されるといってもいいかもしれません。

 そこから「あれこれの区別」すなわち「識」が始まります。

 識の強まりによって自我意識が形成され、「自と他の区別」が生じます。

 自と他の接触によって、あるときは楽、あるときは苦を感じます。つまり本来平等である経験に「苦楽の区別」を生じさせるのです。

 苦と楽があるわけですから、当然そこから「好き嫌いの区別」が生じます。

 そしてそれは強烈なとらわれとなり、われわれはこの欲界の六道輪廻に結び付けられます。

 
 そこで修行を志した者は、まずそのとらわれを超えるために、「取ることと取らないことの平等心」の修行をします。つまりそれがあってもなくても心が動かないように訓練することで、欲界を超え、「取」を超えます。

 次に色界の四無量心の基礎として、「好き嫌いの平等心」を身につけることで、「好き嫌いの区別」を超えます。

 色界の最終段階で、「苦楽の平等心」を得、「苦楽の区別」を超えます。

 そして無色界に入り、「空無辺」の境地において、空間を越えます。空間を越えるということは「自己と他者の平等心」であり、名色の超越です。

 次に「識無辺」の境地において、「あれこれの区別」を超え、「あれこれの平等心」に至ります。

 そして行・縁起・カルマの流れそのものに実体がないことを悟り、「過去と未来と今の平等心」を得、「時間」を越えます。

 そして単に想いがあるとか無いとかを超えた「想いがあるなしの平等心」によって低いニルヴァーナを超えます。

 そして最終的に、輪廻とニルヴァーナさえも平等に見ることで、最高のブッダの境地である無住処ニルヴァーナに至るわけですね。

 取る・取らないを平等に見て、欲界を超える。
 好き・嫌いを平等に見て、四無量心を修習し、
 苦楽を平等に見て、最高のサマーディに至る。
 自と他を平等に見て空間を越え、
 あれこれを平等に見て、識別を超える。
 過去と今と未来を平等に見て、縁起の流れにとらわれずに時間を越え、
 想いのあるなしを平等に見て、低いニルヴァーナを超える。
 そして輪廻とニルヴァーナさえ平等に見たならば、
 無明を超えたブッダの境地に至る。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする