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精進

 私はすでに十の力を具足し、何の恐れるところもなく、導師として衆生の中で獅子吼し、法の輪を転じて、衆生を済度するのである。

 色(肉体)・受(感覚)・想(表層意識)・行(経験の残存印象、カルマ)・識(識別作用)は、苦しみの集積である。
 色・受・想・行・識は、無明と渇愛によって生起する。
 色・受・想・行・識は、無明と渇愛が滅することによって、滅する。

 無明によって行がある。
 行によって識がある。
 識によって名色がある。
 名色によって六処がある。
 六処によって触がある。
 触によって受がある。
 受によって渇愛がある。
 渇愛によって取がある。
 取によって有がある。
 有によって生がある。
 生によって老い・死・愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みがある。

 無明を滅することによって行は滅する。
 行を滅することによって識は滅する。
 識を滅することによって名色は滅する。
 名色を滅することによって六処は滅する。
 六処を滅することによって触は滅する。
 触を滅することによって受は滅する。
 受を滅することによって渇愛は滅する。
 渇愛を滅することによって取は滅する。
 取を滅することによって有は滅する。
 有を滅することによって生は滅する。
 生を滅することによって老い・死・愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは滅する。

 このように、私によって法はよく説かれ、明らかにされ、余すところなく説示されたのである。
 このように、私によってよく説かれ、明らかにされ、余すところなく説示された法は、良家の子にとって、信によって出家し、精進して行ずるに値する。
 たとえその身の皮膚や肉や骨はしぼみ、血は枯渇しようとも、なおその気力が残っている限りは、あらん限りの力、気力、努力をかきたてて行ずるに値するものである。

 それはなぜであろうか。かわいそうに、怠惰なる者は、依然として苦しみに住し、悪不善の法に没入し、その失う利ははなはだ大きい。
 それに反して、正しく精進する者は、幸福であり、よく楽に住し、悪不善の法を離れ、その得るところの利ははなはだ大きいのである。

 劣れるものによって最高のものは得られない。最高のものによって最高のものは得られるのである。
 汝らの師は、汝らの面前において、この聖なる修行を最高のものと言っている。よって、まだ得ていないものを得、達していないものに達し、現証していないものを現証するために、精進するがよい。

 そのように、このわれらの出家はむなしからず、実り多く、果報が多いものである。よって、たとえわれらが与えられるもの――衣服・飲食・臥具・薬品等の資具が粗末なものであろうとも、それらはまことにわれらにとって大きな利益があり、大きな果報があるものなのである。

 よって汝らは、まさにこのように学ぶがよい。
 もしも真に自分のためになると認めるならば、それは精進するに値するものである。
 もしも真に他人のためになると認めるならば、それは精進するに値するものである。
 もしも真に自他のためになると認めるならば、それは精進するに値するものなのである、と。

 

speech:Sakya Muni Buddha
arrange:Keisho Matsukawa

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