私自身の本質であり、
私自身の本質であり、けがれなく、生まれておらず、常に純粋な、
無条件の自然発生の存在の輝きが立ち上る。
それをどこか他で探すことのない、叡智と空の結合として理解する。
そしてこのようにして、土台の完全な悟りに到達し、
願わくば私が、道の精髄のポイントから逸れることがありませんように。
最初から純粋であるので、それには名前という見解さえない。
それは反射的な認識であるので、真実は、原因の瞑想という覆いから自由になる。
それは言及する点がないので、行為の束縛から自由である。
本性の子宮の中で、それは裸の、労作のない状態である。
願わくば私が、道の精髄のポイントから逸れることがありませんように。
良し悪しの概念の両極端に落ちることなく
そして、無関心というあいまいな状態に散乱することなく、
生じることの解放は、平等で、開いている、広がった広がりである。
受容と拒絶が枯渇した本性の完全な認識と共に、
願わくば私が、道の精髄のポイントから逸れることがありませんように。
原初の普遍的な土台のありさまは、空(そら)のよう
土台の現れ、叡智は、空の雲が晴れていくよう
外側の光の認識が内側に向けられるとき、
六つの特別な性質を与えられた若々しい壺の身体の中に入る。
願わくば私が、果の王城を獲得できますように。
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