疑い
ドゥジョム・リンポチェはよく、インドの豪胆な盗賊の話をした。数知れぬ掠奪の限りを尽くした果てに、その盗賊は自分のしてきたことを悔いるようになった。何とかして悪事を償いたいと思い悩んだ末に、ある有名な師を訪ねた。盗賊は言った。『私は罪人です。ひどく苦しんでいます。ここから抜け出す道はあるでしょうか。私はどうすればよいのでしょうか。』
師は言った。『お前の知覚やら感覚やらを、ごっそり盗み出すがいい。空に浮かぶ月を、星を、一つ残らず盗み取って、空の腹の中に、心の本質のすべてを包み込む空間の中に、放り込んでしまうがいい!』
21日経って、その盗賊は、自らの本質を悟った。そしてついにはインドの偉大なる聖者の一人に数えられるようになった。
そう、古い時代には、並外れた師のもと、この盗賊のように無心で一途な弟子がいて、揺るぎない信頼をもってただ一つの教えに専念し、解脱に至るということがあったのだ。だが今でも、力に満ちた智慧の手法をただ一つ心にとどめ、それをもって直に働きかけていったなら、私たちにも悟りに至る可能性はあるのだ。
しかし、私たちの心は疑いに満ちて混乱している。私は、疑いこそが人間の成長を妨げる、欲望や執着よりも大きな障害なのではないかと思うことがある。私たちの社会は智慧よりも狡猾さを奨励し、知性の極めて表面的で、粗雑で、最も無益な面ばかりを褒め称える。私たちは間違って「洗練」され、神経症を病み、その結果、疑いそのものを真理だと思うようになってしまった。エゴが懸命に智慧から我が身を守ろうとする、その必死の試みに過ぎない「疑い」を、最終目標として、真の知識の結実として、神聖視するようになってしまった。この卑劣でさもしい疑いは、下劣な輪廻の帝王である。その周りには多くの「専門家」たちが仕えている。
――ソギャル・リンポチェ