母なる神(1)
1
私たちの努力の目標である、かの大願が成就するのは、下から求める揺るぎない不退転の切望と、それに応えてくださる至高の恩寵とが、一つになって働いたときである。
しかし、至高の恩寵が働くのは、「光」と「真理」を通してのことであり、「誤り」と「無智」が押しつけた状態を通して至高の恩寵が働くことはない。
まさにこれが「光」と「真理」の実態なのであって、これより他の状態のもとにあって至高の力が下ることは決してない。
しかし、「自然」を余裕の態度で扱って、そこで障害をことごとくなきものにしてのけられるのは、上から下り、下から開かれる、まさに超精神の至高の力だけである・・・・・・。
だがそのとき、必ず必要となるのは、私たちの、心からなる、余すところのない明け渡しの態度であって、神の聖なる力能に向けて己を一途に開いた、ひたすらな態度である。
この「明け渡し」は、全面的なものとして、自分のありとあらゆる部分を差し押さえたものでなければならない。
自分の、最も外面的な部分をも含めた一切に、いささかなりとも、ためらいがあったり、疑いや混乱やごまかしなどの陰に隠れる卑怯な未練があったり、はたまた反抗や拒絶の態度があったりしたのでは、断じてならないのである。
たとえ自分の一部が明け渡しを決めていても、別の部分がためらって、自分流の道を歩んだり、自分流の状態を打ち出したりしたのでは、人はそのたびに、神の聖なる恩寵を、自ら退けることになってしまう。
献身と明け渡しの陰にこっそりと自分の欲望や自分の利己的要求などを忍び込ませたり、これらをもって嘘偽りなき真の切願の代わりとしたり、混ぜものとしたりしたのでは、それらを「神の聖なるシャクティ」の前に差し出したところで、神の聖なる恩寵を招来して自らを変容させていただくことは、不可能である。
たとえ「真理」に向けて自分の一面や一部を開いたところで、別の面では、あまたの非真理に向けて、諸々の門を常に開け放したままというのでは、神の聖なる恩寵が自分と共にあることを期待しても、始まらない。そこに神の生きた『お出まし』を望むのであれば、寺院は綺麗に片付けておく事が必要である。
神の力が介入して「真理」をもたらしてくれても、そのたびにそれに背を向けて、いったん締め出した欺瞞をまた呼び込むというのであれば、非難されるべきは神の聖なる恩寵ではなく、自らの意志の欺瞞性であり、自らの明け渡しの不徹底さである。
「真理」を求めているのに、自分の内の何かが、偽りと無智と神的ならざるものを選んでしまったり、自分の内の何かが、それらを拒絶しようとしないのであれば、神の聖なる恩寵は、あなたから遠のいていってしまうだろう。まずは自分の内に潜む欺瞞的な点や曖昧な点を突き止めて、それらを絶え間なく退け続けることだ。そのときに初めて、神の聖なる力が降り、自らの変容を遂げることも可能になるのだから。
神に捧げられた館に、真理と非真理が同居したり、光と闇が同居したり、明け渡しと利己心が同居したりすることが許されているなどと、ゆめゆめ思い描いたりしてはならない。自己の変容は、余すところなきものでなければならず、それ故に、自己の変容に逆らうものの一切の拒絶もまた、余すところなきものではくてはならないからだ。
自分のエゴの明け渡しを、嘘偽りのないものにすることだ。そのときに初めて、それ以外の一切が叶うことになるのだから。
至高者は、あなたに向かって自分の明け渡しを求めはしても、それを押しつけたりすることはない。言い換えるならば、あなたは、取り返しのつかない最終的変容がやってくるまでは、自ら神を否定するも神を退けるも、逆に己をむなしくすることも、常に自由なのだ。
活力なき受動性は、真の明け渡しといつも混同されてしまうが、活力なき受動性からは、力強い真なるものが生まれてくることは、決してない。あらゆる曖昧な影響やあらゆる神的ならざる影響の手の内に易々と下るのは、活力なき受動性によるものである。
「神の聖なる力」が働いてくださったり、「覚醒した真理の天使」や「曖昧と欺瞞を相手に戦う内なる戦士」や「神の忠実なしもべ」などが手をさしのべてくださるためには、喜んでその助けの手の中に入る「力強い柔順」が、こちらの側に求められるのである。
まさしくこれが正しい態度なのだから、かかる態度をとってこれを堅持する者のみが、失意や困難に出会ってもめげることのない信仰を保って、至高の勝利と大いなる変成へと至る試練を、敢然と乗り越えることになるのだ。
-
前の記事
勉強会講話より「解説『母なる神』」第四回(7) -
次の記事
母なる神(2)