死と無常
人はやがて誰もが死に至るという現実。それを知らない人はいないでしょう。しかし、今日にも死ぬかもしれないという現実を見据えて生きている人はほとんどいません。そうして「今日は死なないだろう」という根拠のない確信を、死の直前まで持ち続けるのです。
この錯覚を対治しなければ、この人生がまるで無常ではなく確固たる常なるものであるかのように認識されて、今生の小さな楽と苦のみに心がとらわれ、来世のことや、輪廻からの解脱や全智を得ることなどの大きな問題について吟味することができなくなってしまい、真理の実践ができなくなってしまいます。
たとえ縁によって、真理を学び、考え、瞑想することがあったとしても、そのような心の状態では、今生のみのための修行になってしまい、そのようにしてなした修行は力が弱くなってしまいます。
また、もし来世のために修行しようと思ったとしても、いつ死ぬかわからないという生の無常性への認識が弱ければ、「少しずつ修行して、そのうち成就しよう」という懈怠に陥り、愚鈍さや無駄話や食べすぎなどの散乱により時を過ごすようになるので、修行への精進や集中の力が弱くなってしまうでしょう。
「自分は必ず死ぬ。そして死はいつ訪れるかわからない。今日にも訪れるかもしれない」ということに対する認識が正しく生じたならば、最初の段階では、たとえば愛する人や財物などとも必ず分かれなければならないことなどを認識し、それらへの強すぎる渇愛をやめようとするでしょう。
さらに認識が進むなら、「世俗の八つの法」と呼ばれるものすべてから離れたいという思いが生じるでしょう。
世俗の八つの法とは、
①何かを得ること
②何かを失うこと
③快楽
④苦しみ
⑤賞賛されること
⑥非難されること
⑦耳に心地よい言葉を聴くこと
⑧いやな言葉を聴くこと
この八つです。
これらの世俗の法すべてから離れたいと思い、功徳と修行を積んで真髄の幸福を得たいと思い、そして他の人々もそこへ導きたいと強く思うようになるでしょう。
よって、死と無常という現実をしっかりと認識することは、非常に重要なことだといわれるのです。経典には、死と無常の正しい認識は、「三界のあらゆる貪欲と無明と慢心をとり除く」「あらゆる煩悩と悪行を一気に破壊するハンマーである」「あらゆる善業を一気に達成する門である」などの言葉によって、大きく賞賛されています。
では具体的には、どのようにすると良いのでしょうか? 仏教では、以下の三つについてしっかりと思惟すべきだといわれています。
①自分は必ず死ぬ
②自分はいつ死ぬかわからない
③死に対して現世的価値のすべては無益である
①番目について補足すると、私たちが結果的にある程度長生きできたとしても、修行ができる時間は非常に短いということも考えなければなりません。なぜなら、まず人生の最初のほう(若年期)では修行したいなどとあまり考えないだろうし、終わりのほう(老年期)は、頭がぼけたり、体が動かなくなったり、さまざまな悪条件により、修行ができなくなります。そしてバリバリ修行できる時期でも、睡眠や仕事によりほとんどの時間はもっていかれるし、その他の時間も、精神的悩みにふけったり、肉体的病に悩まされたり、対人関係で苦労したり、そのようなことに多くの時間を費やすので、一体いつ、修行する時間があるのか、ということになってしまいます。
よってわずかな時間も無駄にせず、修行し、自らの悪業を滅し、功徳を増大させ、心を浄化し、悟りに近づくことに対して、懸命に努力する誓いをなすべきです。
②番目に関して。論理的に考えて、われわれに死の訪れは必定であり、しかもいつ死ぬか全くわからないとした場合、今この瞬間に、死ぬのか生きるのかの確率は、常にフィフティ・フィフティであるといえます。しかしなぜか私たちは生のことしか考えないわけですが、逆に「今日死ぬ」ということのほうをしっかりと考えたほうが利益があります。仏教では「一日一生」といいますが、今日で人生が終わるのだというくらいの気持ちで、瞬間瞬間を全力で生きるということです。
③番目はどういうことかというと、どんなに財産を持っていても、地位や名誉を得ていても、愛する家族や友人や恋人がいても、死の時にはすべてを置いていかなければならないし、またそれらは我々の良い転生や悟りには全く助けにはならないということです。
では死を超えて持っていける(持っていかなければならない)ものとは何でしょうか? それはカルマと、心の習性です。
つまり良いカルマ(善業)と悪いカルマ(悪業)、そして清浄な心と汚れた心。私たちはこれらにより次に生まれ変わる世界を決定され、そこでの幸不幸も決定されてしまいます。また、来世でも真理を修行するのか、悟りを得るチャンスはあるのかなども、すべてはカルマが決めます。
それらを認識したなら、今生でお金や地位や人間関係を良くすることに努めるよりも、カルマと心の浄化に努めることこそ必要であると理解し、努力すべきなのです。
今回は仏教の「死と無常」の教えに関してまとめてみました。
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