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校長ことマヘンドラナート・グプタの略歴(3)

 タクルと共にあった時期、マヘンドラナートの心に、どうして師は自分をサンニャーシンにしてくれないのか、との一つの苦悶が起きていた。出家できたら、心は小鳥のように青い空を自由に飛び回ることができるのに、と。タクルは折に触れて彼を慰めてくださった。タクルは、「心の中で世俗を捨てているのが”離欲者”なんだよ。ここに来る者は、誰も家庭人ではない。」「チャイタニヤ様の在家信者たちは、世間のことに執着せずに暮らしていた。」「あなたは、仕事をしながら、世俗の知恵をうんと少なくなるようにしろ」と諭した。
 か弱い幼児がおどおどと怖がって、母親を最も安全な隠れ家と思って全身の力を振り絞ってすがりつくように、マヘンドラナートもまた、家住者としての自分の人生の弱さの恐れから、タクルにしっかりとしがみついて、死ぬまでその愛に没入していたのである。タクルの話、タクルの言葉以外は口にしなかったほどである。彼にとっては、タクルこそすべてのすべてであり、命であった。マヘンドラナートは、その生涯を完全にタクルのメッセンジャー・ボーイ(召使い)として過ごした。タクルこそ、人間として探し求むべき至上の目的である、と確信しきって――。

  その人は至高最大の宝を得たことを知る
  人そこに安住すれば、いかなる困難にも動揺せず  
       
    ――ギーター 6-22――

 昼も夜も彼は人々に説き努めた――カリユガに人が救われる道は、聖なる人と交わること、一人で何日か静かなところに住んで修行すること、グルの言葉を信じること。
 老年になってからのマヘンドラナートを見た人は、彼をヨーギーか聖仙だと思ったに違いない。彼はただ、ラーマクリシュナへの信仰を人々に分かち与えるために、まるで世捨て人(隠者)のようになって暮らしていたのだ。朝でも、昼でも、夜でも、いつ行っても彼は信仰の話をした。そしてバクタたちと共にいた。ヴェーダ、プラーナ、バイブル、コーラン、仏典、バガヴァッド・ギーター、バーガヴァタ、アディヤートマ・ラーマーヤナ等のすべての聖典から、神の話を常に引用していた。彼自身には、消耗も疲労もなかった。ただ、あらゆる宗教とあらゆる修行の保持者である、タクル・シュリー・ラーマクリシュナの話をするだけであった。彼は身体と心と財物のすべてをタクルの仕事にささげて奉仕したのだった。それが”召使いの私”と名付ける、ハヌマーンの態度と呼ばれるものであろうか?
 シュリー・ラーマクリシュナの召使いになるという幸運は、誰も自ら望んだことではなかった。しかし実際に在世中のタクルに仕え従った伴侶たちは、最初からあの方の召使いなのであった。彼もシュリー・ラーマクリシュナの忠実な召使いであり、タクルの聖なるお口から、「お前は私の身内の者で、私と一つの実体である。たとえば父とその息子みたいなものだ」というお言葉をいただいた。
 タクルは、「ナレンドラナートが自分の代わりに仕事をするだろう」と言っておられたが、あの方はマヘンドラナートにも、タクルの仕事をする、その暗示を彼にときどき与えられた。それは、我々がこのコタムリトの中にときどき発見することができる。――

「マー、私はもう話せない。ラムやマヘンドラやヴィジャイ等に力を与えてください。これからは、これたちがあなたの仕事をするから――」

「マー、あれ(マヘンドラ)にあなたの十六分の一というわずかな力を与えたのはなぜだい? わかりました。それだけであなたの仕事ができるわけですね。」

 ――等。

 ある日、校長先生にタクルは言った。――「マーがバーガヴァタの学者に罠をかけてこの世に置いておかなかったら、誰も神の話(バーガヴァタ)を聞けない」――等々と。

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