校長ことマヘンドラナート・グプタの略歴(1)
今日は、Mことマヘンドラナート・グプタのお誕生日です^^
校長ことマヘンドラナート・グプタの略歴
(『シュリー・シュリー・ラーマクリシュナ・コタムリト』より)
マヘンドラナート・グプタは、西暦1854年7月14日、金曜日、ベンガル歴1261年アシャル月31日、ナーガ・パンチャミー(クリシュナがカーリヤを退治したことを祝う日)の日に、カルカッタのシムリヤ地区シヴァナーラーヤン・ダース通りに生まれた。父の名はマドゥスーダン・グプタ、母の名はスワルナマイー・デーヴィー。マドゥスーダンは、神の信者であった。そして彼の信仰心の厚さについては、タクル(ラーマクリシュナ)も知っておられた。マヘンドラナートは、マドゥスーダンの三番目の息子である。父親が12のシヴァを拝み供養する誓いを立てた後にこの子は生まれたということである。そのために、マドゥスーダンはその息子に愛情を注ぎ、子供にどのような間違いも起こらないようにと、特に注意して育てた。マヘンドラナート少年は、たいそう性格の良い子供で、また両親に対して従順で親孝行であった。彼は、非常に幼いころのことを思い出して話すことができた。たとえば、五歳のとき、彼は母に連れられてマヘーシャのラタヤートラを見に行った。その帰り道に、彼らの船はドッキネッショルのガートに立ち寄った。船に乗っていた人々が皆、寺院内の神々を参拝するため忙しく歩きまわていたとき、彼はどういうわけかカーリー堂の向かいにあるナトモンディル(舞楽堂)にたった一人で取り残されて、母親の姿を見つけることができずに泣いていた。そのとき、誰か知らないある人が、彼の泣いている姿を見て、慰めて泣き止ませてくれた。マヘンドラナートは言っていた――「その出来事は、胸に鮮やかに印象付けられていて、いつもありありと思い浮かべることができた」と。
彼は心の目で、最近建立された白く輝く寺院をハッキリと胸に思い浮かべることができた。そして後になって、そのとき彼を慰め安心させてくれたお方は、あるいは大聖タクル、ラーマクリシュナその人ではなかったかと思っていた。
マヘンドラナートは、子供時代、初等学校で勉強した。彼はことのほか賢く、記憶力の良い生徒だった。そして試験のときは、いつも一番か二番の成績だった。学校への行き帰りの道すがらには、シータラーマーター寺院があった。その寺院は現在、カレッジ・ストリート・マーケットの向かいに建っている。彼は行き帰りにこの寺の正面に立って、女神を礼拝するのが常だった。生来の頭の良さと真面目な努力によって、彼は進級試験、そしてF・A、B・Aの試験、それぞれに奨学金と賞状を授与されて合格している。上級学校の入試では、第二席を獲得した。F・Aの試験のときなどは、数学の準備を少しもしなかったのに五番の成績だったし、1874年のB・A卒業試験では、第三席を獲得した。プレシデンシー・カレッジで、彼はトゥニー教授に愛される生徒であった。在学中の1874年に、彼はケシャブ・センの従姉妹であるタクルチャラン・センの娘、シュリーマティー・ニクンジャ・デーヴィーと結婚した。この妻にも、タクルとシュリーシュリーマー(サーラダーデーヴィー)は、特に愛情を注いでくださったものである。息子を亡くした悲しさのあまり、妻が気が狂いそうになったそのとき、タクルは彼女の体を手でさすって心を落ち着かせてくださった。
マヘンドラナートは、教師の仕事につく前に、少しの間、公務員、そしてその後は商社の事務所に勤めてみたが、こういった仕事は皆、長続きしなかった。神は彼に別の人生を用意されていたのだった。彼は、教授と講師の仕事につき、リポン、シティー、メトロポリタン・カレッジで英語、心理学、経済学を教える講師になった。彼が、タクル・シュリー・ラーマクリシュナのところに1882年に通い始めたその当時、彼はシャームヴァザール・ヴィディヤーサーガル高等学校のシャーマプクル分校の校長をしていた。
ラカール、プールナ、バブラム、ヴィノド、バンキム、テージチャンドラ、クシーロド、ナーラーヤン等のタクルに親しんだ信者たちは、この学校の在校生か卒業生である。そのようなわけで、彼らは皆、彼をマスター・マハーシャイ(先生)と呼んでいた。そんなわけで、後にシュリー・ラーマクリシュナの信者仲間の間でも、マヘンドラ・マスター、あるいはマスター・マハーシャイの呼び名で通っていた。タクルまでも彼のことを、マスター(校長)、マヘンドラ・マスターと呼んでおられた。ラーマクリシュナに多くの弟子や家住の信者を最初に紹介したのはマスター・マハーシャイであった。ギリシュ・ゴーシュはこのことに注目して、「これらのことはすべて、校長が起こしたことだと思う」と言っていた。