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懐刀

 人の心というか意識、観念、世界の見方――これは実は、けっこうコロコロ変わっている。

 心はすぐにマーヤーに騙される。

 これは普通にいうところの心変わりではなく、ものの見方のベースに近い部分で変わっているので、ほとんどの人は気づかない。

 気づくには智慧が必要だが、実は知性の高い人ほど、自己の観念や意識の不変性を信じがちになるので、難しい。

 別にコロコロ変わってもかまわないというなら、カルマの流れに身を任せて生きていればいいのだが、修行者、というよりも「真理を求める人」の場合、それでは困る。

 真理の意味が、自然科学的な現象の解明ならまだいいのだが、そうではなくて心の世界や神の探求などに向かう場合、それを邪魔するマーヤーの欺きと戦いつつ、「純粋な求道心」や「『あれ』に触れた心」を維持し続けなければならない。 

 それには他力に頼るしかない。
 といってもそれはいわゆる他人だよりという意味ではない。
 何か一つの大きな力、流れ、柱を決して離さないと決める。
 どんな激流の中で、意識を吹っ飛ばされても、それだけは離さない。

 たとえば、中国の杜子春の物語で――長くならないように簡潔に書くと――仙人に弟子入りした杜子春が、師に「何があっても声を出すな」と指示される。その杜子春のもとに様々な魔が現れて責めるが、何があっても杜子春は声を出さない。そして最後は杜子春は死に、女性に生まれ変わるが、それでも杜子春はずっと声を出さない。女性に生まれ変わった杜子春はやがて結婚し、かわいい子供を産んだ。しかしあるとき、その子が無惨に殺されてしまう。その瞬間、「あっ!」と声を発してしまった。気がつくと、杜子春は仙人と出会う前の町中にぽつんと立っていた。ミッション失敗だったというわけだ。

 杜子春の場合、最後は失敗してしまったが、とにかく生まれ変わっても、意識や性格がたとえ変わってしまったとしても、ある「それ」だけは変えないのだ。この杜子春の話の場合はそれが師からの指示である「しゃべらないこと」だったのだが、現代の修行者や求道者にとってそれが何なのかというのは、微妙な話なので、表現しづらい。

 一般論として一番良いのは「師や聖者への帰依」である。もし一生を賭けてもいいと思える師や聖者を見つけたら、それがお勧めだ。もともと「修行」の道の基本はそこにある。
 あるいは昔のインドなどの場合、それが『聖典』である場合もある。しかし残念ながら昔のインドの聖典も、他のたとえばキリスト教の聖書なども、現代には合っておらず、「何は置いてもそれだけは100%貫く」という対象にするのは難しい。どうしても現代にあった妥協が必要になってくるだろう。しかしその絶対的に貫く対象にするものには、一切の妥協や言い訳の余地がないようにしないとダメなのだ。

 さて、この話は難しく、微妙なので、よくわからない人も多いかもしれない笑。

 よって最後に、簡潔に結論をまとめると、

1.一生を賭けてもいいと思える師や聖者に巡り会ったと思う人は、彼への「絶対の帰依」を誓うと良い。そして今後、何があろうとも、それだけは外さないのだ。ものすごく極端なことを言えば、仮にその師や聖者が、「僕が悟ってるなんて嘘でしたー! お金が欲しくて、お前たちを騙してただけだよーん!」と言ったとしても笑、それでたとえばみんなが離れていったとしても、自分は絶対の帰依を貫くのだ。

2.まだそういう人がいない場合、まず第一段階として、教えの中で何か一つ、「これだけは何があっても守る」というものを決めるといい。たとえば「何があっても人を批判しない」ということを決めた場合、どんなことがあっても、たとえ、批判してもかまわないと思えるような状況が訪れたとしても、それを守り続けるのだ。自分の考えや環境とは関係のない刻印のようなものとして、それを心に刻むのだ。
 これはもちろん、1の道を歩んでいる人でも、平行しておこなうこともできる。

 究極的にはこういうことによってしか、なかなか人が目覚めることは難しい。
 なぜなら目覚めようという意識もふくめて、我々はマーヤーの術中、手の中にいるからだ。
 だから意識や考えとは別の、何があっても貫くべき決まり事を自分に課すのだ。

 マーヤーに騙されたふりをして、マーヤーに懐柔され振り回されている振りをして、いや、実際に振り回されながらも、「絶対の帰依」という懐刀を、決して離さずに懐に持っておけ。いつか必ずその刀によって、あなたは無意識のうちに、マーヤーの世界を一刀両断にするだろう。

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