常に新鮮な喜び
一つの宇宙を支配するほどの力を獲得しても、なお神を知らぬ事もある。霊的な高さとは、その人が外面的に発揮できる能力の如何ではなく、その人が瞑想中に感受できる至福の深さによって決まるのだ。
神は『常に新鮮な喜び』だ。それは絶えずわき出る泉のように、常に新しく、尽きることがない。おまえが今後何年も瞑想を続けてゆく間には、神ははかりしれぬ巧妙な手段を用いておまえを惑わそうとなさるだろう。だがおまえのように、神に至る道を発見した者は、もはや神を他のいかなる幸福とも交換しようとは思わないだろう。神は何ものにも替え難いほど魅力的だ。
地上の快楽は、すぐに飽きてしまうものばかりだ。物質的欲望には際限がなく、どこまで追いかけても満足には至らない。人は、次々と目標を変えては、自分に本当の満足を与えてくれる何ものかを追い求めているが、その『何ものか』が神なのだ。神のみが我々に永遠の喜びを与えることができるのだ。
外のものばかりを追い求めていると、いつの間にか内なるエデンの園から迷いだしてしまう。外のものは、魂の幸福を真似た見せかけの喜びしか与えてくれない。しかしひとたび見失った楽園も、神を瞑想することによって、また速やかに取り戻すことができる。神は、我々の想像も及ばぬほど常に新鮮なのだ。だから我々は、決して神に飽きることはない。永遠を通じて無限に変化する喜びを与えてくれる神の至福に、どうして飽きることがあろう。
――シュリー・ユクテシュワラ