山のダルマ(23)
あなたが長い期間をかけてこの方法に慣れてきたら、信仰などの要素によって、実際的経験が悟りとなり、あなたは裸で光り輝く純粋なる実在を見るだろう。解放は、まるで長年ずっと被っていた帽子を頭から取るようなものだ!――盲目で何も見えなかった状態が、至高なるヴィジョンにとってかわる。散漫な思考は瞑想として生じ、止まった思考と動く思考が等しく解放される。
まず最初は、思考が古い友人に会ったような感じに認識される。
次に、思考は、蛇が自らの体のもつれをほどくように、反射的に解放される。
そして最後には、誰も住んでいない家に泥棒が立っているように、思考は何の影響も受けずに解放されている。
あなたはこれらの三つの解放の境地を段階的に経験していくだろう。そして「すべての現象は純粋なる実在の幻の現われである」という強い不変の確信が内側から生じ、空と慈悲の大波が突然押し寄せてきて、輪廻とニルヴァーナの識別が消滅する。もうそこには、ブッダと衆生の区別も存在しない。あなたは何をしようとも、1日24時間ずっと、心の本性の安らぎのリアリティの空間から振り落とされることはない。ゆえに、ゾクチェンにおいては「悟りとは、空のように不変なるもの」と説かれているのである。
この悟りを得たヨーギーは、体は普通の人間であるが、心は無努力のダルマカーヤなるブッダの活動の中に在る。彼は一切の道と段階を非行為の状態で進んで行く。
最後に、思考力は枯渇し、目的は消滅する。そして瓶が割れてその内部空間と外部空間が一体化するように、肉体は原子へと溶け込み、心はリアリティの本性に溶け込んでゆく。これは、「童子の壺の身体への変容」と呼ばれる、原初の土台の連続体の内なる輝きである。ゆえに、それをありのままに在らすのだ。この見解・瞑想・行為の最高地点は、「到達不可能な目的の実現」と呼ばれている。実際的経験と悟りの一応の段階は、個々の能力に応じて、段階的に、あるいは順不同に、あるいは瞬間的に現われてくるが、成就のときには、一切の分別が消え去るのである。
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