存在の幻影
存在の幻影は
何とも不可思議で
想像しがたく
はまっている者がその全容を理解するのは
想像することすら難しい
しかし真剣な生き方=カルマ・ヨーガの実践と
各種の修行や教えの学びなどにより
うっすらと見えてくる。
上記二つのうち、どちらが欠けてもダメだ。
存在の幻影は
確定したものではない。
よってつかみにくい。
基準点がなく、
こうと言えず、
概念を超えている。
だからこの文章を読んでも
その真意が伝わる人はほとんどいないだろう。
しかし何らかの目覚めのきっかけとなる種が、
こういう文章から、読み手の心に蒔かれる。
存在の幻影は
正体を見抜かれそうになると、すぐに隠れる。
しかしそれは、別に、ヴェールをはいで、パッと見て、見えるような、そういうものでもない。
お釈迦様がおっしゃった、
「善をなせ、悪をなすな、心を浄化せよ」
――これは完璧なアドヴァイスだ。
方法論として、素晴らしく的をついている。
そして聖なるものへの信、帰依。
これらがわれわれを、目覚めへと誘う。
存在の幻影は、
言葉と概念を武器とする。
純粋な信が、その武器を破る。
神は、我々を目覚めさせるために
揺さぶる。
揺さぶらないと目覚めないからだ。
世に頭が良い人は多いが、智慧ある人は少ない。
無智な人々の、疑いの言葉に耳を貸すな。
神を信じ抜け。
そうすることで、その揺さぶりが、目覚めをもたらす。
たとえ100回地獄に落とされても、神を信じ抜け。