四無量心と八つの世俗の法
大乗仏教や密教で重要視される考え方で、「八つの世俗の法」というものがあります。
これは大まかにいうと、
・得ることと失うこと
・楽と苦しみ
・称賛されることと非難されること
・他者から認められることと認められないこと
この八つを言います。
この教えは、まず大まかには、こうであったら喜び、こうであったら苦しむという、二元性にとらわれた心から脱却するための教えといえるでしょう。
つまり我々は例えば、得ることを期待し、得られないことや失うことを恐怖し、
実際に得たときに喜び、得られなかったときや失ったときに苦しみ、
また過去に得たことをいつまでも喜んだりこだわったりし、過去に得られなかったことや失ったことをいつまでも悲しんだり後悔したりします。
他の項目も同様です。これらの二元性の罠から、心を脱却させなさいということです。
ということは当然、実際には細かく言えばこの四組の八項目に限ることなく、我々の心を二元性の良し悪しの観念に誘い込み、希望や恐怖などを生み出させる様々な世俗的な二元性の観念にとらわれないようにしなければいけません。この四組の八項目はその代表的なものをあげたにすぎないということになるでしょう。
しかし、ではなぜこの四組の八項目が代表としてあげられているのでしょうか? たまたまでしょうか?
それに関しては、伝統的な教えの解釈がもしかするとあるのかもしれません。しかし私は直感的に、これは四無量心と対応するのではないかと考えました。
簡潔にまとめてみましょう。四無量心とは、菩薩が持つべき、慈悲喜捨の四つの無量なる心です。
まず慈とは、すべての他者の幸福を願う心です。
言い換えるなら、他者に幸福を与えたいと思う心です。
真にこの心を発動するとき、自分の幸福には無頓着にならなければなりません。
つまり自分の幸福を他者に与えることができなければならないのです。
しかし自分が幸福を得たい、失いたくないと思っていたら、この慈の心の成就は不可能でしょう。
よって慈の心を培うためには、自分が幸福を得ることや失うことには無頓着になっていかなければならないのです。
また逆に、ひたすら他者の幸福を追求することで、自分が得ることと失うに対する幻影から解放されていくでしょう。
次に悲の心とは、他者の苦悩を憐れみ、他者を苦しみから救いたいと思う心です。
しかし自分の苦しみにとらわれていたら、そんなことはできません。
なぜならこの悲とは究極的には、他者の苦しみを自分が代わりに背負いたいと思える心でなければならないからです。
また楽への執着も、実際は苦しみへの嫌悪に他なりません。
なぜならばこの苦界には真実には(解脱しない限り)真の楽というものは存在せず、世間で楽と考えられているものは実際には苦しみが軽減されている状態に過ぎないからです(皮膚病患者が患部をかいてとりあえずの楽を得るように)。
よって真の悲の心を成就するためには、自分の苦楽には無頓着にならなければなりません。
また逆に、ひたすら他者の苦悩を(自分が肩代わりしてでも)救いたいと思うことで、自分の苦楽へのとらわれという闇から解放されていくでしょう。
次に喜の心とは、他者の幸福、成長、魂の進歩などを心から喜ぶ心です。
当然、自分の中に称賛や非難へのとらわれがあると、他者への嫉妬心や闘争心が出てしまうので、純粋な喜の心は発現しません。
よって真の喜の心を成就するためには、自分が称賛されたり非難されたりすることには無頓着になり、嫉妬や慢心を超越しなければなりません。
また逆に、ひたすら他者の幸福、進歩、長所などを称賛し、喜ぶことによって、自分が称賛されたり非難されたりすることへのとらわれという苦悩から解放されるでしょう。
最後に捨の心とは、前者三つの慈・悲・喜によってひたすら他者の幸福を考えるわけですが、そこにおいて自分自身のことに関しては徹底的に無頓着になり、エゴを捨てる心です。
しかし我々の心には常に、実体のない自我へのとらわれがあり、「私はこうなんだ」「わかってほしい」「認められたい」という執着が根付いています。
この「私」という幻の存在価値、存在証明、これらへの執着を断ち切らないと、捨の心は成就されません。真に捨の心が成就されないと、そもそも四無量心全体が成就されません。
よって、他者から認められることや認められないことに対するとらわれを完全に断ち切らなければならないのです。
また逆に、慈・悲・喜の心と実践に没入し、自分のことを完全に忘れるくらいに没入し続けることによって、自然にこの他者から認められること・認められないことへのとらわれは落ちていき、偽りの自我から解放された真の自由の境地に近づいていくでしょう。
以上は私の直観によるもので、どこかの経典や解説書に書いてあるものではありませんが、なにがしかの参考になれば幸いです。