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善き心で生きよう

 何がどうなるか、すでに結果はすべて決まっている。
 決まっていないのは、どのようにしてその結果につながるかというその過程と、
 その過程を踏むときの心の働きである。

 われわれは、過程が結果を生むと錯覚しているので、
 それぞれの心の習性に従って、
 あくせくして行動し、その行動が生むと錯覚している結果を期待し、恐怖する。
 そしてその心の働きが、次なる心の習性を生み、
 それが次の結果を生む因となる。

 つまり、誤解を恐れずに言えば、
 もうすでに結果が決まっていることは別にして、
 まだ結果が決まっていない、もう少し先の未来の現象のその結果を決めるのは
 今の心の働きなのである。

 もう一度言おう。
 今あなたが善き心を持とうが、悪しき心を持とうが、
 今生じる結果は、すでに決まっている。

 しかし善き心を持つならば、未来には幸福がやってくる。
 そして心は善の習性に薫習されるので、至福に満たされる。

 悪しき心を持つならば、未来には苦しみがやってくる。
 そして心は悪の習性に薫習されるので、苦悩に満たされる。

 だから、あくせくせずに、
 「こうだからこうしよう」というエゴの働きを捨て、
 どんなときでも、損得にこだわらず、ただ善き心を持って行動することだ。
 損得勘定がいけないといっているのではなく、
 その勘定はすべて間違いであり、カルマの罠だということだ。
 君が何をどう計算しようが、どのような過程を踏もうが、到達する結果はすべて決まっているのだ。
 だからただ善き心を持ち、善き行いをなせ。

 「善き心」とは何を基準とするのか?
 それは聖典や、正しい師の教えに従うしかない。
 聖典は、たとえば「入菩提行論」などはその筆頭だが、
 真理の真髄をついた聖典を学び、その教えどおりに生きる。
 しかし聖典の内容は、時代や文化の条件にかかわる部分もあるので、
 善き師がいる人は、より細かい教えは、師に受けるのが良い。

 しかしそのように教えどおりに生きるのは、最初は至難の業だろう。
 すぐに善くない考えに心は支配されるだろう。
 よって努力せよ。
 24時間、自分の心を監視し、善き教えで支配せよ。
 それが「修行」である。
 ぼーっと座っているのが瞑想ではない。それは単に動物界に落ちる道だ。

 そしてそれを補助するために、
 意識を引き上げるための呼吸法などの肉体行や、
 さまざまな瞑想修行などがある。

 善き心を持とう。
 悪しき心を排除しよう。
 教えどおりに生きよう。
 まるで自分は人生の損得勘定ができるかのような、錯覚を捨てよう。
 それは大いなる罠である。

 智慧ある人は気づいている。
 すべては終わるということを。
 終わるものの中に本質はないということを。
 そしてその本質に到達する道は、心の純粋化以外にないということを。

 よって何があっても、善き心を持とう。
 心を純粋にしよう。
 そのためにこの人生が使われるならば
 この無常の人生も、大いに意味がある。

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