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勉強会講話より「解説『至高のバクティ』」第二回 「バクティ」②(6)

 はい。じゃあほか何かありますか?

(A)はい。今の話で、じゃあ、日本にあるお寺とか仏教の人っていうのは、こういう神を悟る修行はしてないんですか?

 神を悟る? 神を悟るっていうか、まあちょっと……じゃあこれも簡単に整理するとね、日本の仏教の場合は、二タイプか三タイプくらいに分かれるでしょう。つまり、真面目に修行している人、もちろん、これもいるね。真面目に日本仏教で修行してると。そうじゃなくて、ただ職業としてやってる人。つまり全然真面目じゃない人。あとその中間ぐらい(笑)。この三つぐらいに分かれるかもしれない。
 前も言ったかもしれないけど、わたしの中学の同級生で、寺の子供、寺の息子がいて。で、そいつが家継ぐとか言ってるんだね。友達のわれわれからすると「コイツが!?」(笑)。こいつが坊さんになって、おれたちのっていうかみんなのお経あげるの?――みたいな(笑)、「勘弁してくれ!」みたいな(笑)。でもそいつは真摯な思いというよりは、「いや、継がなきゃいけないから」みたいな感じで、普通にだから職業としてとらえている。そういう人達もいるわけですよね。
 じゃなくて、「本当に仏道を求めたい」と。で、われわれみたいにインドヨーガやあるいは根本仏教ではなくて、日本仏教にすごく縁があって、日本仏教の道で「道を求めたい!」って人も当然いるわけですよね。
 で、中間というのは、縁があってお坊さんになったけども、そこまで燃えているわけではなく、でも別に適当にやっているわけでもなく、まあできる範囲で、道を求めているという人もいるでしょうね。
 だから、割り切った職業坊主(笑)、それから本当に道を求めている真摯な日本仏教の修行者、中間ぐらいで悶々としてる人(笑)、この三つぐらいに分かれると考えたらいいい。
 で、その中で、当然、道を求めている人、これは、それぞれの宗派の方法論によって――神を悟るという表現は使いませんけどね、それぞれの道においてやってるでしょう。例えば代表的なのを挙げると、禅宗。禅宗系の場合は、曹洞宗とかね、臨済宗とか、禅宗系の場合は当然――チベットのマハームドラーとかゾクチェンとかと似てて、つまり、まあ簡単に言えば、悟りを得ることを目指しているわけだね。神じゃなくてまあ悟りだね。よく「無」って言葉使うけど、実際には「無」ではなくて、われわれの心の本性にアクセスした、言葉を超えた――つまり「言説を完全に超えた、言葉で表せない概念を超えた真理を悟ろう!」と頑張ってるのが、禅の人達ですね。
 じゃなくて浄土宗系。浄土宗系はいつも言うように、一番バクティヨーガに近いんですね。バクティヨーガに近いっていうのは、まさにおまかせの世界。わたしはあんまり日本仏教ってそんなに興味なかったんだけど、浄土宗の経典とか本とか読むとね、結構「おまかせ」って言葉が出てくるんです。「おまかせ」と。あと何だっけ? ちょっと忘れちゃったけどさ……知っている人いるかな? あれ誰だっけ……「古池や」って読んだ人誰だっけ? 

(生徒)松尾芭蕉?

 あれは松尾芭蕉か……あ、その人じゃないや(笑)。

(一同笑)

(H)一茶じゃないですか? 小林一茶。

 ああ、一茶か。じゃあ一茶だったかもしれない――が読んだ句で……何だっけ? これで分かる人いる(笑)?

(一同笑)

 あの、年末の句……。

(H)元旦の?

 元旦のじゃなくて、年末にね、簡単に言うと……つまり昔だからさ、年末に全部ツケを払うわけだね。ツケがたまっちゃって、でも金ねえと。……ちょっと何かこんなふうに説明すると全然情緒も何もないんだけど(笑)。

(一同笑)

 年末に金がないと(笑)。まあちょっと忘れちゃったんであれだけど、つまり年末に金がないんだけど、全然そこで別に心配はないと。全部、阿弥陀様におまかせ、みたいな(笑)。そういう何か句があったよね。なんかそういう発想がある、浄土宗ってね。
 もちろん浄土宗もいろんな人がいるから、いろんな考えがあるんだろうけど、実際には親鸞もそうだっだよね。親鸞も「南無阿弥陀仏で、もしわたしが地獄に落ちても、それが師・法然、グルである法然に従ってそうなったんだったら、地獄に落ちてもわたしは本望である」みたいなことを言っている。つまり完全に投げ出し型のバクティ的な世界だね。だから浄土宗系はどちらかというと、禅宗みたいに「さあ、心の本性とは何なんだ!?」「無とは何だ!?」「空とは何だ!?」「悟りとは!?」っていう世界じゃないんだね。「いかに投げ出せるか」っていう世界なんだね(笑)。「いかにわたしを投げ出せるか」っていうのが、もともとの浄土宗系の教えなんだね。みんながそう考えているかは分からないけど。でも浄土宗でも真面目なお坊さんは当然、その境地を目指して頑張ってるでしょう。
 じゃなくて例えば真言宗とか――つまり密教系ね。真言宗とか天台宗とかの密教系で頑張ってる人達は、当然、あれはインド密教の流れを汲んでいる流れですから――まさにプラクティスっていうかな、行ですね。行を励んでいろんな行の力によって、神秘的な形で速やかに仏陀を悟り得ようと頑張っている人達だね。
 だからちょっと、もう一回まとめると、実際に、その、人によってね、真面目な人、不真面目な人いるだろうけども、真面目な人に関しては、日本仏教という一つの特殊なシステムの中で、当然それぞれの宗派でいうところのゴールっていうかな、境地を目指して頑張っている人はいっぱいいると思うね。いいですか?

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