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勉強会講話より「解説『母なる神』」第四回(7)

 はい、では今日はこれで読むのは終わりにしますので、最後に質問があったら質問を聞いて終わりにしましょう。はい、全体的に何か質問ある人いますか?

(A)瞬間的に出る嫌悪――なんかゴキブリ見たときに「ワッ!」ってなるときっていうのは、ただびっくりしてるのか、それとも嫌悪なんですか?

 それはいろんなパターンがあるよね。例えばさ、自分の中で――そういうのって思考訓練をしてみるといいと思うんだけど――ゴキブリを見ると「ワッ!」となると。じゃあ蝶々だったらどうか?――蝶々ね(笑)。例えば蝶々が出て、「ウワッ!」てなるとしたら、ただそれはびっくりしやすい人っていうか(笑)。そうじゃなくて、パッて蝶々が出てきたときに「フワーッ」てなって、ゴキブリで「ワッ!」てなるとしたら、それは嫌悪ですよね? それはまあ分析したらいい。つまり、根本的にゴキブリへの嫌悪がありますと。例えば段階があるんですけどね。例えばゴキブリを……パッて出たら別ですけども、ゴキブリがいるって分かっていて、それに対して、「ああ、彼もまたわれわれと同じ衆生である」と。「愛おしいな」と。「幸せになって欲しいな」って気持ちを持てる、もしくは持とうとする――これは、まあある段階の話ね。つまり普通だったら、ゴキブリがいたとしたら、「あー! 汚い!」あるいは、「あー! 気持ち悪い!」「あー! わたしゴキブリ駄目なの!」――じゃなくて、ウーッと愛を向けると。あるいは慈悲を向けると。これをもしできるんだったらオッケーと。
 でもそれはできたとしても、努力してそれができたとしても、根本にはやっぱり習性として「ゴキブリは嫌なんだ!」っていう気持ちがある場合は、当然瞬間的にはパッて出ちゃいますよね? で、これはもちろんしょうがない。これはさっき言った、まだそういう習性があるわけだから。その習性を、出たら、切る。出たら、変える。出たら、変える、この修習。これによって、その習性自体が変わっていきます。だんだんだんだん――あるいはもちろん深く考えてもいいよ。「そもそもなんでゴキブリを嫌悪しなきゃいけないんだ?」と。少なくともこれには、何度も言ってるように、教学が必要です。仏教とかヨーガの教学がしっかり入ってたら、何度も言うように――例えば自分のおじいちゃんがゴキブリに今生まれ変わってるかもしれないんだよ(笑)。そう思ったら嫌悪できないよね。うん。だって矛盾があるじゃないですか。「あー、死んだおじいちゃん」とか言ってながら、走ってきたゴキブリをバーンって叩いたら(笑)、「おれがおじいちゃんだ!」って感じで(笑)、ゴキブリが悲しむかもしれない。

(一同笑)

 だからその可能性を考えたら――可能性というよりも、魂のレベルではみんな同じわけだから。おじいちゃん、あるいはわたしが好きな誰々さんとか、同じレベルである魂がゴキブリとして今活動してるだけなんです。で、現実的に何かあったらまた別なんだけど、例えば蚊が――わたしは蚊とかもこうよく吸わせるけども、でもまあ蚊は病原菌も運んでくるから、だからそれはちょっと避けるっていうかな、そういう現実的なのはまた別です。もしくはゴキブリが病原菌運んでくるから、あまり食卓には寄せないようにするとかね。それはまた現実的な対処としては別にやってもいいんだけども、心の中でえも言われぬ不快感っていうかな。それが出るとしたら、「それはなぜなんだ?」と。逆にかわいそうじゃん、こいつ。だって世界中で嫌われてるんですよ、根拠なく(笑)。
 あのさ、不公平でしょ? 例えば蝶々は愛されて(笑)、ゴキブリは嫌われてる。二つとも別にそんなに何か害があるわけでもないし、そんなに何か利益を与えてるわけでもないんだけど。「だったらわたしぐらいは愛してあげよう」と。ね。あるいは……なんのその自分の感情にも根拠がないっていうかな。それをしっかり考えて、無根拠で否定したり嫌悪したりするのは、修行者として恥ずかしいと。うん。あるいは菩薩として、バクタとして恥ずかしいっていうことを日々考えるんですね。で、考えて、考えて、それを、そういうのが出たときにも考えて、普段からも考えてやってて、その内側のそういうのがグーっとなくなってくれば、さっき言ったように、その瞬間的な嫌悪は出なくなってくる。だんだんね。普通に慣れてくるっていうか。「あーゴキブリさんまた来ましたねー」みたいな感じになってくる。これはだんだん成長してくる感じですね。
 で、ちょっとそれは置いといて――じゃなくて、びっくりする。これはまあ、誰でもびっくりしますよね。なんかもしそういうシチュエーションになったら。でも人によってびっくりしやすい人っているよね。つまり恐怖が強い。もしくはビクビクしやすい人。これは全然別の話になりますけど、動物のカルマです。動物のカルマ。だからそれは、ちょっと別の話として、「あ、自分はそういうのが多いな」って思う人は、「あ、わたしには動物のカルマがあるんだ」と。今日はあまりつっこまないけども、動物のカルマっていうのをちゃんと学んで、で、それを自分のポイントにしたらいい。「あ、自分は動物のカルマが多いから、すぐビクビクして、自分を守って……」――で、そこから怒りに発展したりするんだね。自分を守りたいから。恐怖が強いからね。逆に言うと、動物のカルマが少ないと、堂々としてきます。堂々として、少々のことではびっくりしない。
 あるいはね、本当に神にすべてを捧げられてたらあんまりびっくりしないよ。だってどうなってもいいんだから(笑)。捧げられてたら(笑)。ね(笑)。バッて何か出てきても、別にどうなってもいいっていうか。うん。もちろん瞬間的な身体的反応としてね、いろいろこうあるかもしれないけども。でも「どうなってもいい」っていうか、「おまかせします」っていう気持ちがあったら、またビクビクはしない。あの、面白がってビクビクするのはあるかもしれないけどね。でも精神的に、本能的にはビクビクしなくなってくる。
 だからその二つの観点から考えたらいい。もう一回まとめると、本質的に自分の中に嫌悪がある場合は、第一段階として、瞬間的に出るのはしょうがない。でもそれが永続しないように、ちゃんと念正智して頑張ると。で、それをひたすら繰り返すうちに、瞬間的にもだんだん出なくなってくるっていうのが一つね。
 で、もう一つは全然違う観点で、そもそもビクビクしやすい場合は、それは動物のカルマだと。だからいろんな意味で、動物のカルマを超えていく修行をしなきゃいけない。動物のカルマを超えるのは、簡単に言うと、一つはもちろん教学は必要ですね。それから、まあ怠惰な世界なんで、いろんなものを曖昧にしたりとか怠惰にしないで、しっかりとやるべきことは今日やると。あるいはしっかり精進すると。努力するという習性を身につける。あともう一つはね、邪淫。つまり性的なけがれが多いと動物のカルマが強まるね。だからそれはしっかり、そういうのがもしある人はしっかり懺悔をして、もちろん禁欲をして、で、しっかりと修行して、エネルギーを高めると。
 動物っていうのはエネルギーレベルが弱いんだね。エネルギーレベルが弱いからちょっと心がオドオドしちゃうっていうか。なんとなく分かるでしょ? 心にエネルギーが少ないとオドオドするんです。で、われわれの心が生命エネルギーで充満してると、非常に堂々とする。だから過去の邪淫を懺悔すると同時に物理的に現在においてもちゃんと禁欲して、修行して、あるいは徳を積んで、エネルギーを高めると。それも一つあるね。
 だからいろんなかたちで動物のカルマを――もしそういうビクビクしやすい人はね――乗り越える修行をしたらいいと思います。いいですか?

(A)はい、ありがとうございます。

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