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内側の安らぎに達するための教え

内側の安らぎに達するための教え

ミパム・リンポチェ

――すべての善き特質の基礎は、自己の心を培うことだ――

 純粋な輝きの壮麗さを有し、
 事物は真実にはどのようであるのか、そしてそれらはどのように現れるかの双方を知り、
 心の虚像物という波を静める寛大な本性である童子に、
 わたしは、恭しく敬礼いたします。
 そのように敬礼しつつ、わたしはここに、この大いなる真理に達するための助言を書こう。

 概念は、水のように不断に流れる意識の連続体を凝結させ、曇らせる。
 無始のときから今まで、それらは集積してきたが、
それらはただの苦しみの波、善の欠如、考慮に値しないもの、無用なもの、そして確実性のないものでしかなく、そこには絶望しかない。

 これらの存在するものすべての広がりの中に現れる虚構の現われは、苦しみである。
 これらの堆積に根差していることで、
 あなたは、内側の安らぎとより広い見解の良い特質も、
 ありのままの心の喜びも、わずかですら得ることはできない。
 これが、絶望の根である。

 絶えず対象の関連性を検討し、
 そしてその対象から心を動かさないように努めることによって、
 ひとたび、あなたが有害な心の習性から回避する方法を知るならば、
 心は、渦巻きが回転するように、同時に一点に流れ込む。

 神と人の世界におけるあらゆる世俗の楽しみの中で心を支配することは、戦いによっては得られない。
 もっと正確に言えば、子供が手放すように、
 欲する対象への執着を手放すことで、
 ありのままで平穏な心は、歓喜と楽しみを見つける。

 それが乱されていないときの心の海の歓喜は、
 災いの根絶の際に訪れるもののようだ。
 このようなけがれなき歓喜の光輝は、
 たとえ、あなたが何か力を持っていたとしても、得るのは難しい。
 無力なもの(相対的な力と現象)によって振り回されていて、
 誰が解脱した心の至福を経験することができようか?

 これ以上経験することはないから、
 それに達することで、すべての世界の豪華なものや豊かなものは、
 透明な海に月や星が映った現われのように見える。

 神通力などのさまざまな種類の良い事物が生起する、すべての良い特質の基礎は、自己の心を培うことである。
 訓練されていない心の中に、どのようにして良い特質が見つけられるというのだろうか?

 それ故に、この貴重な身体を得た命を
 無駄にすることは非常に容易いとはいえ、
 衆生のために、絶え間ない念正智によって、心を浄化しなさい。
 何が起ころうとも、正しい心を手放してはいけない。
 祈り、誓うことで、心を緩めずに努力しなさい。

 まず最初に、徐々に堅く結ばれた悪しき習性を解きなさい。
 そして、もっともっとその努力を広げていくことで、
 正しい習性の始まりを創りなさい。
 念正智の対象に一点に集中する心を保持しつつ、
 クリアで、乱れのない安らぎを勝ち取るまで、努力しなさい。

 徐々に、そのように慣れてきたことで、
 自らの思考を道にしつつ、
 心そのものの善と悪の特質、受容と拒絶を分析しなさい。
 どんなに長くかかっても――たとえそれだけで数ヶ月が過ぎても――
 努力し続けなさい。

 熱意があり、エネルギッシュな心と
 修行の四つの拠り所は、エッセンスである。
 念正智という鎖によって取り囲まれることで、
 不動な力によって、
 その周囲へ向かって空間を満たしながら、
 大いなる至福は、心の鏡に生じるだろう。

 客観的な対象に集中することは、
 その純粋な特質を分析することと、
 身体の感覚の流れと一体化することの両方の意味がある。
 あなたがそこで安住したならば、
 ヴィジョンや種字など、何が要素として使われても
 成功はやってくるだろう。

 この堕落した時代に、粗暴な感情は、
 心とエネルギーの流れを曇らすだろう。
 自らとぐろを巻きながら、グルグルと回る卑劣な蛇のように、
 束縛が生じ、それからその反対のものが生じるといった
 狂気じみた増減の動きが生じるだろう。
 心はそれらすべてに疲弊し、
 おびただしい拒否反応が始まるだろう。

 それが、リラックスし、心を動かされない境地にある間、
 心の本性を検討することによってのみ、
 それが集中したところに入っていくことで、
 その流れは確実に成長するだろう。
 概念という動く風に従わないことで、
 それらを捨て去る意味を知ることで、
 心の広がりは、徐々に晴れ、
 概念のジャングルは、徐々に静まるだろう。――
 心の大海は、次第に乱れなく、光り輝き、そして汚れなくなっていくだろう。
 
 これは、内側の安らぎと、より広い見解の結合である、すべての良い性質の土台である。
 安定した寂静の力によって、堅固であることによって、
 あなたは、生来的な意識の広大な領域であるより広い見解に、徐々に到達するだろう。
 
 生来的な意識の真意は、
 原初からの光輝と純粋性である。
 その自分の心の内側を理解することによって、
 そして、絶え間なく対象の関係性を検討することによって、
 意識の流れは安定する。
 これが、安らぎに到達するためのすべての教えという贈り物である。

 意識の流れが安定したことで、
 活動的な至福、光り輝く創造性と、架空の仮定からの解放は、
 さまざまな方法で生起する。
 そして、あなたが存在の原初の経験にアプローチするにつれて、
 それを理解するのは容易になるだろう。
 現代において、これはよくある瞑想法である。

 しかし、たとえあなたが心の本性を理解したとしても、
 もしあなたがその領域に慣れ親しんでいなかったならば、
 純粋なヴィジョンは現れないだろう。
 その修行は影響を残さず、
 あなたの経験は、普通の人々のそれのようになるだろう。
 これは瞑想ではない。そしてブッダはそのように説かれていない。

 他方では、もしあなたが意識の本性を理解せず、
 内側の平穏の境地に安住するだけならば、
 たとえ概念が断たれ、いくつかの良い性質が顕現しても、
 あなたは、「概念がそれらの開かれた場所にとどまることを許すことから生じる自由」という要点が分からないだろう。
 未だにしがみつき、未だに束縛され、
 あなたは受容と拒絶である輪廻の根を獲得しただけである。
 
 したがってあなたは、
 自分の本質を理解することと、確固として安定することの、双方を為さなければならない。
 これは、心を理解するための、そして修行のための、二重の基盤である。
 原初の経験の真意は、
 自ら生起する光輝の領域である。
 これは、永遠にありのままで、永遠に統合された、
 内側の安穏とより広い見解である。

 これらの数百のスートラとタントラで説明された大いなる教えは、
 多くの人々に極めて尊重されている。
 しかし、あなたの心の中に、
 ただそのようなものを呼び起こすだけでは、瞑想とはいえない。
 そのような平凡な活動は、
 少しの改善ももたらさないだろう。
 
 過度に快活な概念化の力の下で、
 あなたが、起こり得るはずの叡智と特質を見つけられないならば、
 たとえ心を何度も見るとしても、それは無意味である。
 それは、水の中の波の乱れのようであり、
 それは、大いなる疲弊だけを生み出す。

 しかし、この原初の深遠なる教えに従い始め、
 あなたの心という舵取りを制御することについてのすべてを理解することで、
 あなたは、大いなる宝を得る幸福の中で安らぎ、
 そして、自己と他者の両方のための利益を得るだろう。
 よって、早くこれを悟る努力をしなさい!

 すべての努力の大いなる重要なポイントは、
 この自己の心を培う修行だけである。
 この如意宝珠というこの素晴らしい船は、
 絶えず、その偉大性と、言葉では言い表せない特質の中にとどまるだろう。

 この意味を正確に理解するという幸運によって、
 この心のヨーガの中に忠実にとどまることで、
 すべての活動から解放され、心は、一つの点になるだろう。
 すべてのものが、この真に意味ある教えの悟りを得ますように。

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