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今この瞬間のリアリティ

 お釈迦様が晩年、多くの教えを説かれ、またその当事の北インドの中心的な都市のひとつであったラージギル(ラージャグラハ)。
 しかし今はここは全く開発されていない田舎町で、そのためか他の仏教聖地に比べて観光客も圧倒的に少ない。しかしそのおかげで逆に自然や田舎の雰囲気が保たれている。
 
 この辺には、お釈迦様と弟子たちが住み、歩き、教えを説いたグリッジャクータ山や、有名な竹林精舎、お釈迦様の死後に弟子たちが最初の教えの編纂会議(第一結集)を開いた場所、そして後にインド最大の仏教大学となったナーランダー僧院跡など、重要な仏教聖地がひしめいている。

 そしてその中に、温泉地がある。ここは仏典にもたびたび出てくるので、お釈迦様もこの温泉につかったこともあっただろう。
 私はここに二回行き、つかってきた。温度は結構熱めで、いい湯だった。
 ここは温泉といっても寺院のようになっており、温泉の中に神が祭られている。
 壷を持ったインド人がうろうろしていて、観光客を見つけると、頭から温泉のお湯をかけて祝福してくれるが、その後でお金を要求してくる(笑)。払うお金が少ないと、もっとよこせと要求してくる(笑)。もちろん、最初にそういう約束を交わしていなければ、別に払う必要はない。
 そしてもちろん、寺院だけではなく、この温泉はこの辺に住む人たちの生活用水としても使われている。
 
 ところで先日、インドを特集したテレビ番組で、この温泉が出てきた。そしてリポーターが、「この温泉は神性なものなので、外国人が入ることは許されていない。外国人で入るのは私がはじめてです」と紹介し、入っていた。いい加減なものだな、と思った(笑)。私も入っているし、普通に開放されているから、他にも外国人で入った人など多くいるでしょう。

 そういえば先日、また別の番組で、インドのヒマラヤのダージリン地方に日本のタレントが行った番組があり、そこでタレントが現地人に日本のカレーうどんをご馳走していたのだが、そこで「インドには麺類がない」というナレーションが入っていて驚いた(笑)。インドに行ったことがある人ならご存知だろうが、インドではチャイニーズフードは結構ポピュラーで、特にチョウメンと呼ばれるインド風スパイシー焼きそばは、多くのレストランのメニューにある。
 また、カレーヌードルもポピュラーだ。私は何度かヒマラヤのゴームク(ガンジス河の源流)に行ったけど、その途上の山道の茶屋で、よくこのカレーヌードルにお世話になった。
 だから「インドには麺類がない」なんてとんでもないし、しかもカレー味の麺もポピュラーなものです。
 しかしまだまだインドのことは一般の日本人には知られていないことが多いので、テレビ局もいい加減な番組作りをするんでしょうね。まあ日本在住のインド人もそれを見て、「ノープロブレム!」と笑っているのかもしれませんが(笑)。

 おっと、今回はカレーヌードルの話ではなかった(笑)。話を戻しますが、上述の温泉の園にお釈迦様が滞在していたときの、神との対話の物語です。

 お釈迦様の弟子のサミッディが、明け方にこの温泉につかり、体を洗った後、衣をまとい、体を乾かしながら立っていました。
 するとそこに美しい一人の神が現われ、光を放ってサミッディに近づいてきました。神は空中に立ったまま、サミッディにこう話しかけました。

「修行僧よ。あなたは若くて、初々しく、髪が黒く、すばらしい青春をそなえているのに、人生の第一の時期に、欲楽を享受することなしに出家した。
 修行僧よ。人間的な欲望を享受しなさい。
 現に目の当たりに経験されることを捨てて、時を要するものを追及するようなことをなさるな。」

 ・・・この神の言葉をちょっと解説しますと、現世の欲楽は、今、味わうことができる。しかし修行で得る今生の幸福や、あるいは来世の幸福などは、今は味わうことができず、しかも本当にそういう幸福がやってくるかどうかもわからない。だからそんなわからない先のことを追い求めるのをやめて、今の幸福を追求しなさい、という忠告ですね。
 こういう忠告は、修行をしている人は、誰かに同じように言われたことがある方もいるかもしれないし、あるいは自分の中で、こういう迷いが生じたことがある人もいるかもしれませんね。
 そしてこの神の忠告に対して、サミッディは次のように答えます。

「友よ。私は、現に目の当たりに経験されることを捨てて、時を要するものを追及しているわけではない。
 私は、時を要するものを捨てて、現に目の当たりに経験されることを追及しているのである。
 友よ、愛欲は、実に時を要するものであり、苦しみ多く、悩み多く、災いがはなはだしい。
 そして真理の法は、現に目の当たりに体験されるものであり、叡智ある人々が自ら体得すべきものである。
 お釈迦様はこのようにお説きになっているのです。」

 さて、このようにサミッディは、神に対して、「あなたの言っていることはあべこべですよ」ということを言うわけですね。
 真理の法は、来るかわからない未来や来世に期待するものではなく、常に今この瞬間を、リアルに悟っている状態を目指すわけです。
 それに対して一般の欲望は、たいていが「妄想」と「思い出」に包まれています。たとえば味覚の快楽も、性的な快楽も、その快楽そのものの時間は短く、その前の期待の時間と、その後の思い出の時間がほとんどなわけです。しかもその期待の裏側には不安があり、また、結果的に期待がかなえられなかったとき、思い出ではなく後悔が生じます。
 だから神の「今の喜びを捨てて、来るかわからない未来の喜びを追及するな」という忠告に対して、サミッディは逆に、「それはあべこべである。私は不安定で過失の多い未来の欲楽を捨てて、今この瞬間のリアリティに覚醒する真理の法の喜びを追究しているのだ」と答えたわけですね。それこそがお釈迦様の教えだと。

 さて、それに対してその神は、そのさらに深い意味を尋ねます。サミッディは、自分はまだ新参物の修行者なので、それに対して詳細に説くことはできないから、お釈迦様に直接尋ねなさい、と言います。
 するとその神は、
「お釈迦様は、大きな力を持つ神々に囲まれているので、私のような神は近づくことができない。だから一緒に言って、あなたからお釈迦様に質問してくれませんか」とお願いします。そこでサミッディは了承し、一緒にお釈迦様のもとへ行くのでした。

 お釈迦様のもとへやってきたサミッディは、ことの一部始終を話しました。そしてそこで、お釈迦様とその神との会話が始まります。

お釈迦様「名称で表現されるもののみを心の中に考えている人々は、名称で表現されるものの上にのみ立脚している。名称で表現されるものを完全に理解しないならば、彼らは死の支配束縛に陥る。
 しかし名称で表現されるものを完全に理解して、名称で表現をなす主体が【ある】と考えないならば、その人には死の支配束縛は存在しない。その人を汚す煩悩は、もはやその人には存在しない。
 鬼神よ、もしもあなたがそのような人を知っているならば、告げてください。」

神「尊師よ、世尊が今簡略に説かれたことの意味が、私にはわかりません。その意味を私が理解できるようにお説きください。」

お釈迦様「【私は優れている】【私は等しい】【私は劣っている】と考えている人は、それによって争うであろう。
 これら三つのあり方に心の動揺しない人には、【優れている】とか【等しい】とかいうことは存在しない。
 鬼神よ、もしもあなたがそのような人を知っているならば、告げてください。」

神「尊師よ、世尊が今簡略に説かれたことの意味が、私にはわかりません。その意味を私が理解できるようにお説きください。」

お釈迦様「思慮雑念を捨て、迷いの住居に赴くことなく、この世における名称と形体とに対する妄執を断じ、結び目を絶ち、煩悩の煙の消えた、欲求のないかの人を、この世とかの世とにおいて、神々と人々が捜し求めても、ついに見出し得なかった。--天界においても、すべての住所においても。 
 鬼神よ、もしもあなたがそのような人を知っているならば、告げてください。」

神「尊師よ、世尊が今簡略に説かれたことの意味を、私はこのように理解しました。
 --いかなる世界においても、言葉によっても、心によっても、身体によっても、いかなる悪をもなしてはならない。
 もろもろの欲楽を捨てて、よく気をつけて、しっかりと念い、ためにならぬ苦しみに身をゆだねるな--と。」

 さて、これでこの物語は終わりなのですが、お釈迦様が神に向けて言った一連の教えが少しわかりにくいかもしれないので、私なりに簡単にまとめてみます。

1.名前・概念によって人々は実体を考えるが、名前・概念というのは単なる約束事であって、そこに何の実体もない。それらに束縛されているうちは、生死輪廻から逃れられない。
 しかし名前・概念で表現されているものの本質を理解するならば、その人は生死輪廻の束縛から解脱する。

2.人は自分と他人、あるいは今の自分と過去未来の自分を比較し、「優れている」「等しい」「劣っている」という感覚を持つ(これを三つの慢といいます)。それによって慢心や卑屈さや闘争が生まれる。それらの比較の心から離れなければならない。

3.雑念を捨て、実体のない名前や概念に対する渇愛を捨て、輪廻に我々を結びつける煩悩を絶ち、欲望が消えた修行者は、この輪廻の世界から消え失せる(ニルヴァーナに至る)。

 そしてここまで聞いたその神は、お釈迦様がおっしゃりたかったことを理解し、その具体的結論を、このようにまとめるわけです。

「いかなる世界においても、言葉によっても、心によっても、身体によっても、いかなる悪をもなしてはならない。
 もろもろの欲楽を捨てて、よく気をつけて、しっかりと念い、ためにならぬ苦しみに身をゆだねるな。」

 さて、この最後の言葉で出てくる、「よく気をつけて、しっかりと念い」というのは「正念正智」と呼ばれるものです。何を気をつけ、何を念じるのかというと、自分の言葉・心・身体が、悪をなしていないか、ということを常に細心に気をつけ、そして常に真理の法を心に念ずるのです。

 そしてさらに高度な「念」としては、この物語の最初のテーマである、今この瞬間のリアリティに意識を集中するということになります。それは光り輝く純粋な心の真髄に常にアクセスし続けるということです。

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