ヴェーダーンタの実践(17)
24、ブラフマンは空である。
それは空白とか空虚というものではない。
究極的に何もないものを心に思い描くのは不可能である。
それはパリプールナ(完全なる充満)である。なぜなら、一切の欲望がそこで溶け去るからである。
あなたは至高なる、絶対なる満足(パラマ・ニティヤ・トリプティ)を得る。
それはすべてである。
あなたが(この偽りの幻影である「わたし」を滅することで)無になるとき、あなたはすべてを得る。
あなたはすべてのものになるのだ。
25、本性の法に対する信は、神への信である。
全世界は明確で安定した法の下で動いている。
そこには可能性や偶然というようなものは存在しない。
神(イーシュワラ)は、ブラフマンのタタースタ・ラクシャナ(顕在化した姿)である。
バクタの敬虔な礼拝のためだけに、ニルグナ(特質のない)・ブラフマンはサグナ(特質のある)・ブラフマンとしてお現われになる。
真実には、そこにはサグナ・ブラフマンのようなものは存在しない。
そこには実在のみが存在する。
それは「真実」である。
それは「真理」である。
26、あなたがあなたの前に木を見るように、心の活動を見ている何者かが存在しているはずである。
その誰かとは、クタスタ(至高の魂)・ブラフマンである。
27、好き、嫌いというような二つの発想の最も単純な比較とそれらの認識は、それらを比較している不可分の統一性、つまり言及されている要旨の外部にある真我を前提としている。