ヴェーダーンタの実践(10)
11、この取るに足らない「私」、低次な自己を不当に称している誤った個性を、注意深く分析しなさい。それはすべての不幸、トラブル、苦難の原因である。
肉体は「私」ではない。
足や手が切断されたとしても、「私」は残る。
それは五大元素から成り立っているのである。
それはアンナン(食物)から結果として作られるものである。
それゆえに、それは「アンナマヤコーシャ」と言われる。
それはすべてパーツでできている。
それには始まりがあり、終わりがある。
それは腐りゆくものである。
それはジャダ(知覚なきもの、知性なきもの)である。
インドリヤは「私」ではない。
それはジャダ(知覚なきもの、知性なきもの)である。
それには始まりがあり、終わりがある。
それはラジャス・グナとサットヴァ・グナの影響である。
それはタンマートラから成り立っている。
マナスは「私」ではない。
眠っているとき、マナスは存在していない。
けれども、そこには意識の連続した感覚はある。
マナスはジャダ(知覚なきもの、知性なきもの)である。
それには始まりがあり、終わりがある。
それは無常の観念の束である。
それは闇の中を手探りしている。
それは悲しみの中に沈んでいる。
それは強烈な恐怖の中にある木材のようになる。
プラーナもまた「私」ではない。
それはラジャス・グナの影響である。
それはジャダ(知覚なきもの、知性なきもの)である。
それには始まりがあり、終わりがある。
アーナンダマヤ・コーシャ、またはカーラナシャリーラ(原因体)は、ムーラ・アジュニャーナ(根本無智)の性質であり、ヴァーサナー(習気)とサンスカーラから構成されている。
それはジャダ(知覚なきもの、知性なきもの)である。
それには始まりがあり、終わりがある。
私が「私」と言うとき、私は本当に「私である」とか「私は存在している」と感じている。(サットの様相)
私は「私は在る」と理解している。(チットの様相)
私はアーナンダ(歓喜)を感じる。(アーナンダの様相)
内観によって注意深い分析を行うと、取るに足らない「私」は実体のない無へと滅されていく。あたかも玉ねぎが、さまざまな層をはぎ取っていくと、何もなくなってしまうように。
そしてわれわれは、「核」あるいは「本質」、つまり、すべてのそれらの現れ、たくさんの取るに足らない「私」にとっての基体あるいは背景であるサチダーナンダ・ブラフマンである大いなる無限なる「私」に達するのだ。
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