yoga school kailas

ヨーガの語源

 「ヨーガ」という言葉の語源は、大ざっぱに言うと二つある。
 一つは、「コントロール」だ。もう少し正確に言うと、御者が馬を調御することだ。
 私達の体や心や感覚というのは、暴れ馬のようなもので、普通はコントロールしづらい。そして心身の不調にさいなまれ、人生はつまらないものになっていく。苦しみ多きものになっていく。そしてコントロールできない感情や肉体のために、多くの失敗を起こす。
 ヨーガを修行すると、普通はコントロールできないこれら肉体、心、感覚といったものを、自分のコントロール下におくことができるようになる。だから自分の目的に応じて常に最高の力を発揮することができるようになるし、感情や肉体の不調に悩まされることもなくなる。心の奥底にある、最もすばらしい光り輝く自分の本質こそが、自分の支配者に
なるのだ。

 もう一つの意味は、「合一」だ。
 何と何が合一するのか? 例えば、肉体と心。普通の人はこれがバラバラになっているのだが、ヨーガによってこの二つの調和がうまく取れるようになってくる。

 あるいは、ヨーガの呼吸法を続けると、身体の中にある、いくつか種類の異なる「気」が合一し、特殊な気を作り上げて行く。

 あるいは、ヨーガの修行を続けると、下腹部から燃えるような熱のエネルギーが発生し、それが身体の中を上昇する。そして頭の中にある「神秘の月」と称されるものを溶かし、そこから「不死の甘露」と呼ばれる月の滴をしたたり落とさせる。この甘露は心身にえもいわれぬ歓喜を生じさせる。そしてこの下から生じる熱と、上から落ちてくる甘露が合一した時、そこに「もう一人の自分」が誕生する。

 あるいは、私達は常に、楽と苦、称賛と非難、成功と失敗、希望と恐怖、満足と不満足、好きと嫌い、敵と味方・・・といった相対の思い、対立する二元の思いの中にいる。たとえそのうちの楽の方を得ても、それはその裏に潜む苦をも増大させるに過ぎない。得た楽が大きいほど、それを失った時の苦も大きい。好きなものへの執着が大きいほど、嫌い
なものへの嫌悪も大きくなる。ヨーガの修行を続けると、これら対立する感情が合一していき、「平等心」が身につくようになる。この平等心こそが、感情や先入観に左右されずに物事を正確に見極める力を育てることとなり、人生においても失敗をすることがなくなる。

 そして最も崇高な意味での合一は、ジーヴァートマンとパラマートマンの合一だ。
 「私とは何か?」を追求し続けた結果、発見する「私」の本質、それがジーヴァートマンと呼ばれるものだ。
 そして「宇宙とは何か?」を追求し続けた結果、発見する「宇宙」の本質、全世界の本質、正体、それがパラマートマンだ。
 そして最後に行者は、実はこのジーヴァートマンとパラマートマンが同じであることに気づく。こうして「私の本質」と「宇宙の本質」は合一する。これがジーヴァートマンとパラマートマンの合一だ。
 例えば海の中に、海水の詰まったビンがある。ビンの中も外も海水だ。しかしビンという壁が、「私(自我、エゴ)」という間違った錯覚を生じさせる。このビンを割った時、ビンの中の海水と大海の海水は合一する。しかしもともと、ビンという壁が錯覚させていただけで、もともとビンの中も外も何も変わりはなかったのだ。

 同様に、もともと、この世のすべては真理であり、神であり、ブッダである。
 では歴史上に現われたお釈迦様やヨーガの聖者たちと、我々の違いは何なのか? 彼らもブッダだし、私達もブッダだ。しかし彼らは、「目覚めたブッダ」なのだ。そして私達は、「まだ寝てるブッダ」なのだ。この夢の中で、ある者は悪夢を見、ある者はよい夢を見る。しかしすべては夢なので、私達がこの世で体験するすべての事象は、はかなく無常
だ。
 目を覚ませ。ビンをたたき割れ。この夢の世界ではなく、真実の世界で会おうじゃないか。
 ヨーガこそが、目を覚ますための秘密のカギであり、合言葉なのである。言葉で言えるのはここまでだ。あとは実践するしかない。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする