パトゥル・リンポチェの生涯と教え(1)
Enlightened Vagabond
――悟りに達した放浪者――
パトゥル・リンポチェの生涯と教え
◎序章
パトゥル・リンポチェは、雄の地の竜の年(1808年)に、カムのザチュカ地方にある、カルチュン・コルモ・オルというところで生まれた。カムの六つの地区の最北端に位置しているために、ザチュカという地は、メコン河の源流であるザ河に沿って存在する標高の高いへんぴな牧草地である。
そこの空気は薄く、空は地平線に広がり、うららかである。緩やかな丘陵地帯の間に曲がりくねった広大な平原が広がっているのがこの地域の特徴で、その丘陵地帯は氷河を帯びた雪山へと続いている。
ダチュカには農民が少数いるが、この夏の短い厳しい気候では、ほんのわずかな作物しか育たないのであった。高地の牧草地に住む者たちの多くは遊牧民であり、彼らは数千年の間、馬やヤクや羊の数を増やすことで、生計を立ててきた。
永住の住処をもたず、ただ簡易的住居であるヤクの毛のテントをもって、遊牧民たちはたびたび移動した。一年に二回から四回の頻度で場所を変え、季節の移り変わりに応じて、家畜たちの最高の牧草を求めて、高地の牧草地からまた別の土地へと、大切な家畜たちを移動させるのである。
パトゥルが生まれたとき、デルゲ王がダチュカを治めていた。パトゥルの父の一族は、デルゲ王に三十五人の世襲の聖職者を提供した神聖なるムクポ・ドン族の上流のゲツェの分家に属していた。パトゥルの父は、ギャルトク・ラワンと呼ばれていた。母の名はドルマといい、ドムサのジェ・ンゴ一族の娘であった。彼らはザチュカの上方にあるゲツェのドゥ・カルチュン・コホル――またの名をコルモ・オルという――というところにある裕福な遊牧民のコミュニティで暮らしていた。
パトゥルは幼年期をこのようにして、標高の高い高原の広大で開けた地と、メコン河の上流を囲む丘陵地帯で、穏やかに過ごした。そこは、夏の盛りには無数の花が一面を覆い、厳しい冬には霜で満たされてしまうのであった。このような土地は、当然のように、外界の景色が、解放的な精神的生活と瞑想の実践を促してくれるのである。
◎パルゲの系統
パトゥル(パルの生まれ変わり)という名は、パルゲの系統の名前から来ている。初代のパルゲ・ラマは、サムテン・プンツォクといった。マンジュシュリーが彼のイダムであり、彼はマンジュシュリー・ナーマ・サンギーティを十万回以上も唱えた。
物語には、こう語られている――かつて、パルゲ・サムテン・プンツォクが、ドムサの上流地域に向かう途中にラバを休ませるために、マモ・タン(マモの平原)と呼ばれる場所で足を止め、そこで、全域に響き渡るような、マニ・マントラ(オーム・マニ・パドメー・フーム)の自然発生的な音を聞くというヴィジョンを見たのであった。この吉兆なるサインに従って、サムテン・プンツォクは、マモ・タンを自分の住処に選び、そこはパルゲ・ラブラン、またはパルゲ・サムテン・リンとして知られるようになった。
数年後に、デトー・ポンモという名の偉大な風水師がマモ・タンにやって来た。彼女も、この広大なる平原の吉兆なる地形に感銘を受けて、こう書き記している。
「東には太陽と月――まるで光を供養しているよう。
南には甘い香りの森――まるで香りを供養しているよう。
西には雪山――まるでトルマを供養しているよう。
北には冷たいツァ河――まるで水を供養しているよう。」
彼女は、マモ・タンに神聖なる記念碑を建てれば、衆生に素晴らしい利益をもたらすだろうと予言した。それに従って、パルゲ・サムテン・プンツォクは、マニ壁を建設したのである。
この壁は、十万個以上の平らな石で建てられており、それぞれの石には、「オーム・マニ・パドメー・フーム」のマントラや、他のさまざまなマントラ、あるいは聖なる詩句や聖なる絵が手で彫られているのである。この巨大なマニ石の壁は人の頭よりも高く、広さはその二倍あった。そしてやがては、その広さは一マイル(約1.6キロ)近くの長さにまで達したのであった。この壁は、すべての衆生――それを見た人、触れた人、その周りを周った人、それを心に思い続けた人、あるいはただ単にその存在を伝え聞いた人――それらすべての衆生の利益のために捧げられた。パルゲ・サムテン・プンツォクの死後、彼の遺骨を納めた白い模様のストゥーパが、パルゲ・マニ壁に沿って建てられた。
次のパルゲ・トゥルクは、ギャという部族のラロ一族の中に見い出され、パルゲ・ウムゼとして知られるようになった。ゾクチェン・リンポチェ三世”ンゲドン・テンツィン・サンポ”によって発見された彼は、幼少期から驚くべき性質を示し、子供だというのに、「僕は、十万のマニ壁を建てた者です」と宣言したのである。パルゲ・ウムゼは大人になると、マニ壁を拡大した。
かつて、彼がドムサの上流地域で多くの人々に教えを説いていたときに、彼の儀式用の帽子が頭から飛び、ドルマという少女の膝に落ちた。そこで彼はこう言った。
「私は来世、この少女の息子として生まれるだろう。」
パルゲ・ウムゼは二十五歳のときに、ラサに行くことを決めた。出発の前夜、彼はギャ・カトク一家を訪ねた。彼が去った後、一家は、彼がある儀式で使うものを置いて行ったことに気づいた。一家はそれらを彼に返そうとしたが、トゥルク(パルゲ・ウムゼ)はそれを拒んで、こう言った。
「それらはもう、当分の間は必要ないでしょうから。」
彼はラサに向けて出発し、到着後すぐに突然病に倒れ、ゴツァンの庵の近くで亡くなってしまったのだった。彼の遺体が荼毘に付された場所では、真冬だというのに、突然、花が咲き乱れたという。その地域の人々は、このカムから来た非凡な少年の遺骨を納めるために、ストゥーパを建てた。
パルゲ・トゥルクが転生する場所については、千里眼で有名なラマ、タクルン・マトゥル・リンポチェに助言を求めた。そのラマは、トゥルク(生まれ変わり)を見い出すための明確な指示を与えた。
「パルゲ・トゥルク」という異名は、省略してパルトゥル、あるいはパトゥルとすることができる。ゆえに、パルゲ・トゥルクはザ・パトゥル・リンポチェ(ザチュカから来たパトゥル)として、知られるようになったのだった。