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バクティの精髄(6)

 神への愛は無私でなくてはならない。神への愛の背後に、現世的な動機があってはならないのである。そうでなければ、それはただ、執心や迷妄が形を変えたに過ぎない。アルタ(病などに苦しめられる人)、ジジュニャース(知識を追い求める人)、アルタールティ(富やお金を追い求める人)らは皆、利己的なバクタである。彼らが信仰の最高の果実を得ることはあり得ない。彼らは、世俗性によって迷妄になっているのだ。ジュニャーニだけが、真の無私なるバクタであり、感情なき安穏という威厳と気高さで満ち溢れている。最高のバクタは、神から何も求めない者である。彼は、ただ神だけを求める。彼はこう言う。

「おお、主よ! 私はあなたのものです。あなた以外に私が求めるものはありません! すべての根源であるあなたを得た上で私が得るべきものなど、一体何がありましょうか?」

 小麦を得たら、パン、パロッタ、ハルワ、あるいはその他の小麦を原料とするものは得たも同然である。黄金を得たら、すべての装飾品を得たも同然である。そして神を得たら、すべてのものを得たも同然なのである。
 バクタは神意識に没入する。彼は至福の海にどっぷりと浸かっている。彼は甘露の海で沐浴をしている。彼は不死のエキスをガブガブ飲んだ。彼はアプタ・カーマ(すべての望みを叶えた者)となった。なぜならば、彼は神を得たからである。

 最高のバクタの聖典は、シュリーマド・バーガヴァタである。それは、われわれをけがれなき完成の境地へと導く、放棄、信仰、智慧の偉大なる理想を具体的に表現している。プラーナは、人々に考えられているものよりも遥かに素晴らしく、ヒンドゥーの聖なる文学作品の最高のものである。それは神を愛する者たちの富であり、聖なる智慧の書物であり、非行為の道を提唱している。シュリー・クリシュナ・チャイタニヤ(ゴウランガ)は、この作品をインドの霊性の産物の中の最高峰と見なしていたと言われている。それは純粋な霊性のダルマへと通ずる素晴らしき権威であり、アルタ(富)やカーマ(愛欲)を示すものではなく、直接的にモークシャ(解脱)を示しているのである。それは、熱心にその欠点を見い出そうとする者たちをも魅了する。バクティ(信仰)、ヴァイラーギャ(放棄)、ジュニャーナ(叡智)の高度な解説が、その作品全体にしっかりと染み渡っている。リシャバーデーヴァ、ジャダバーラタの放棄と叡智の理想、アヴァンティのブラーフマナの理想、ドゥルヴァ、プラフラーダ、アムバリシャの信仰の理想、ナーラダ、カピラの智慧の理想、そして何にもまして、バガヴァーン・シュリー・クリシュナがその献身的な弟子であるウッダヴァに説いた教え、不滅の命は、シュリーマド・バーガヴァタの中核をなしている。

 バクティをねじ曲げて伝えたり、バクティのあら探しをすることは、重大な過ちである。なぜならば、あらゆる宗教の真の精神は、神への憧れと愛、神との合一の渇望を暗示しているからである。永遠なる至福についての最高の概念とは、平伏や奉仕だけではなく、永遠者との愛に溢れた合一である。
 真の信仰を解脱へのメソッドとして重要視するといっても、人間への奉仕や愛を無視しろといっているわけではない。なぜなら、すべては神であるからであり、人間に奉仕している者は、神に奉仕しているからである。隣人を愛する者は、神を愛しているのである。バクタは、世界のすべての生類と自分とを同一視する。彼は宇宙を神の顕現としてしか感じない。それはまさに、ヴェーダーンタの悟りにほかならない。誠実な思いで神を真に愛する者たちが、正道を踏み外すことはあり得ないのだ。彼らは堕落することがない。罪人やシュードラでさえも、解脱という気宇壮大なる高みに飛翔する。神の慈悲は計り知れない。神は彼らの智性を照らし、常に彼らの世話をしている。バガヴァッド・ギーターとバーガヴァタが、その証拠である。バクタは神によって導かれ、至高なる至福を獲得するために、神によって智慧の光で照らされるのである。

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