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バクティの精髄(5)

◎聖なる御名

 要約すると、バクティは二つの要素からなっている。――まず第一に、深い感情によって育まれた神への強烈な愛着、そして神への愛に対する真剣な熱意である。
 これら二つの要素が合わさったとき、バクティとは、その愛から生じる愛着、あるいはその愛着として顕現する愛であることにわれわれは気付く。バクティの本質的特徴は、その感情が至高者――真理、不滅である至高なる愛らしい御方――に結び付いているというところにあり、決して、一時的な、つまり真実ではない、世俗の対象に結び付いていてはならないのである。そのような愛あるいは献身は、さまざまな表現のかたちをとり、さまざまな名で呼ばれる。

 キールタン(信仰の詩、主の栄光を歌い称えること、さらに良く知られた意味としては主の御名を歌うこと)は、それらのうちの一つである。

 どんな名前も、その特有の概念を持っている。その概念の対象が何であれ、それが一般的であれ、特別なものであれ、粗雑であれ微細であれ、幻想であれ真実であれ、名前はその概念と原則的に結びついている。名前は、われわれがそれを理解し、それをはっきりと心に留めておけるように、それと結びついた特定のフォーム、対象に、明快で適切な表現を与える。

 御名とは、さまざまな時代、さまざまな地域において異なった名や姿で知られる、至高者の言葉による現われである。至高者は無限である。有限なる心の知覚を超越したものを認識することは、普通の人間にとっては不可能であるがゆえに、彼らはこの無限なる真理を、それぞれの傾向、認識の仕方によって、異なる姿、象徴、対象で表わしている。初期の段階においては、神の御名とそれに関連したものの中に違いや区別が存在するが、最終的には、御名の復唱の習慣が身に付き、目覚めている間中、聖なる意識が続くようになったとき、御名とそれに関する思想や対象の間に区別がなくなり、至高者の直観的叡智が、その御名の中に明かされる。なぜならば、すべての御名と姿の根本は、さまざまな時代や場所のさまざまな宗派や系統の信仰や傾向に合わせて、異なった御名や姿で顕現する根源なる御方であるからである。

 協和的で律動的な響きは、独特のイメージを生み出す。それはただのイマジネーションではない。それぞれの音には、特有のイメージがある。ある特定の音が、いくつかの異なる水面に、ある特定の形状を創り出すということは、科学的に証明されている。ゆえに、それぞれの姿と結びついたそれぞれの神の御名が、心の水面にそのイメージを創り出すということも、論理的に信じられる。御名を繰り返し唱えることで、御名はそれを唱える者の心にその印象を深く植えつけ、最終的に御名を唱える者は神のヴィジョンを得るのだ。

 主の御名には、計り知れない深淵さ、強烈な美しさ、魅力がある。それは、限定された知性の取るに足らない説明の域を超えている。それは経験することによってのみ、知り得るものである。音楽はまず神経を興奮させて、それらを調和させ、そして不思議にも心に影響を与える。
 誠実なバクタは神聖なる恍惚感に我を忘れる。世俗的な心には、この強烈な感情の境地を掴むことや知覚することは不可能である。
 神の御名は一切が至福であり、それが唱えられると、心はその至福の中に溶け込み、その至福の中で個の存在性を失う。

 神とその御名は同一のものである。それらは分けることができない。主はその御名が唱えられるところに住まう。その空間全体が神聖化され、平穏、純粋性、至福がそこに広がる。
 主の御名は愛のメッセージを運び、苦しみ、不安、束縛から魂を解放する。
 主の御名は、境界や差別を知らない。
 主の御名は、卑劣な低次の自己を浄化し、それを宇宙意識、超越的神という高みへと飛翔させる。

 普通の自我意識においては、御名を唱える者と御名の間には二元性がある。それは散漫な状態なのである。――それはどこにでもあるような経験の領域内でのことであり、限定された観念の心の、強固な範疇に閉じ込められたものである。最終的には、この誰もが持つ自我意識は、超越的経験、超越的意識の境地へと飛翔する。そこで御名を唱える者と御名は一つとなる。永遠に明らかな真理が、彼に明かされる。そして彼は自分が至高者と一つであることを悟るのである。二元性の感覚――有限と無限の間の分け隔てられた溝は、取り除かれる。直観という暁が、彼を有限性から無限性、束縛から解放、暗闇から光、死から不死へと導く。彼はただただ、神の中で歓喜だけを経験する。彼には、その歓喜やその歓喜の源を分析しようという思いすらない。彼はただ、そこに神への愛のみを見い出す。彼は神以外の何ものも意識しない。彼にとっては、すべてがただ神の顕現なのである。彼が心を奪われた神への愛は、宇宙全体の名前と形を貫き、彼にとって、その多重相の現われそのものが、ただ神として現われる。彼は、この世界の生物無生物の対象に対して、神に対するものと同様の激しい愛を感じる。

 神の御名の栄光は、言うまでもなく、論理やとりとめのない議論などで立証することなどはできない。それはただ、信とバクティによってのみ経験できる。有限な限定された知性では、確実に、無限、限界のないものの本質を理解することなど不可能なのだ。神の御名の栄光には限りがない。
 聖典はわれわれに数えきれないほどの神の御名を提示している。それは神の御名は数え上げることが不可能であるということであり、無限であるという意味である。ゆえに、有限なる知性が、どうして有限性を超越したものを理解することができるというのだ?

 人を世俗的な束縛から解放し、安穏、至福、不死という無限なる領域へと導く、完全なる至福であり、完全なる純粋性であり、全能なる神の御名に栄光あれ!
 神の御名に歓喜し、神の御名によって生命を維持し、神の御名と一つとなるために生きている祝福された者たちに栄光あれ!

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