バクティの精髄(25)
◎マドゥラ・バーヴァ
ラサの開発における最高峰は、マドゥラである。これは恋人(愛人)の態度である。
神は、本質的に至福である。
マドゥラ・ラサは、純粋な至福の顕現なのである。
神は、純粋な至福である。
存在の本質的な性質は「歓喜」である。
神は、プレーマ・ムールティ(愛の権化)である。
彼は、「サークシャット・マンマタ・マンマタ」――愛の神の中の愛の神なのだ。
神は最も美しく(スンダラム)、最も愛らしい(カンタム)。
「彼」を愛するということは、最大限の愛情を表現するということである。
神への愛は、部分的な、偏ったものではない。
神への愛は、感情が完成されたものなのだ。
マドゥラ・ラサとは、シュリンガラ・ラサ(恋愛のラサ)の超感覚的な原型なのである。
シュリンガラ(マドゥラ)・ラサは、霊性の側面において、修行の最高境地なのだ。
それは肉欲的な愛ではなく、世俗的なものへの執着を持たない純粋な愛なのである。
この種のバーヴァは、開発するのが非常に難しい。
初心のサーダカ(修行者)においては、それは効果的どころか、危険であるケースがほとんどだ。
マドゥラ・ラサは、その実践において、すべての慣習、躊躇い、疑い、個人的な見解などが振り捨てられ、愛――けがれなき愛だけが育つがゆえに、最高なのである。
歓喜・至福が最高潮に達するのは、マドゥラ・バーヴァの開発においてである。
これは、性愛あるいは肉欲ではない。これは、欲深い者たちには理解できない純粋な愛なのだ。
大多数の人々は、これを理解することができないだろう。なぜならば、純粋な心を持っていないからである。
マドゥラ・ラサには、”抱きしめたい”という強い欲求がある。
”抱きしめ合う”という行為は、強い愛情表現の結果として生じるものである。これは、世俗的にも、聖なる意味でもそうである。
世俗的に為されれば、それは執着から生じる束縛となるが、聖なる意味で為されれば、それはその強烈な愛着から解脱が生じるのである。
この愛着の作用というものには、不可解なところがある。
それは、経験することはできるが、論理的に理解できるものではない。
そして同様に、絶対なるブラフマンの至福も、掴むことができず、論理や論証とはかけ離れた境地である。
哲学者も形而上学者も、それを理解することはできない。
それは心の境地である。知性でそれに対処できるわけがないのだ。
どんなに推論を重ねようとも、この境地の経験を言い表わすことはできない。
この経験が花開くとき、知性は止まってしまうだろう。
愛は経験の中に溶け込む。
バクタは愛する御方への愛に没入する。
ブリハダラニャカ・ウパニシャッドにはこう説かれている。
「夫は、妻を強く抱きしめるとき、その外側のことや内側のことを認識していない。同様に、人は至高者を抱きしめる際にも、その内側や外側を何も認識しない。」
そこには、至福以外何も存在しない。
至福には『対象化』というものがない。
その至福がどこからやってくるのかわからない。
ただ単に、至福の海に没入しているだけである。
そこには『主体と客体』という意識はない。
『私は愛する者』であり、『彼は愛されている者』という意識は、説明不可能な、混じり気のない純粋なる至福の状態に没入する。
絶対者の悟りには至福があるが、それは『主体』からも『客体』からも生じるものではない。
至福とは、実在の永遠なる性質なのだ。
マドゥラ・バーヴァは、「サンボーガ」と「ヴィプラランバ」の二種類からなっている。
サンボーガとは強烈なバーヴァの類であり、全く私心がなく、強烈に相手の幸福を願っている恋人同士が、結ばれるのを恋い焦がれているときのエクスタシーを超越している。その性質は多種多様である。
ヴィプラランバとは、”結びつく”か”別離する”という状況にあるバーヴァである。それによって、将来に結びついたときの歓喜がより強烈になる。それは、四種類からなっている。
・プルヴァ・ラーガ――一目見ただけで生じるラティ。あるいは、相手の長所、美点、美しさを聞いたときに生じるラティ。
・マナ――心の奥底から相手のことだけを思っているような、密接な関係の恋人同士の結びつきが妨害されるというバーヴァ。彼らが結びついたときの強烈なエクスタシーは、耐えがたいものである。
・プラヴァサ――以前は結ばれていたが、現在は大きな障害が立ちふさがったことで離れ離れになっている恋人同士の状況。
・プレーマヴァイチットリヤ――純情な女性が、実際には恋人と結ばれていて、無上の喜びの状態にあるというのに、漠然とした別離間から悶え苦しんでいるという、すさまじい熱情の状態。
あなたたちが皆、バクティ・バーヴァ、バクティ・ラサに確立されて、シュリークリシュナ・ラサを味わうことができますように。
◎警告
マドゥラ・ラサは、世俗の男女間の感覚とは絶対的に違うものである。それを勘違いしてはならない。
世俗的な男女の愛は、完全に利己的であり、ギブアンドテイク的である。
しかし、神への愛においては、バクタは、自分のことは無視して、神を喜ばせる。
ゆえに、神への愛は利己的ではない。サットヴァから生じるものなのである。
しかし、世俗的な愛欲は、ラジャス、そして肉体への執着から生じる。
世俗的な男女の愛は、自分のことを慮った利己的な感覚から生じ、一方で神聖な愛は、エゴの入らない、相手を慮る気持ちから生じる。
強い利己性は、煩悩の根である。
神聖なる愛は、エゴの消滅から生じる。
これが、世俗的な愛著と神聖なる愛の最も大きな違いである。
前者をカーマ(愛欲)と呼び、後者をプレーマ(神への純粋な愛)と呼ぶ。
この二つは、闇と光のような関係性である。
世俗的な愛情は、それがたとえどんなに完璧なものであっても、決して人を、神との交わりの至高の歓喜に導くことはできない。
愛欲は、生き物の核心に焼き付いている渇愛を因として、心の中に潜んでいる。
神聖なる恋愛は、世俗の人には理解できない。
神聖なる恋愛の秘密は、男が男であり、女が女である限り、理解することは不可能であるし、理解しようと試みるべきでもない。
人間から神への変革は、神への真の愛から始まる。
マドゥラバーヴァの最高段階は、マハーバーヴァと呼ばれている。
バクタは、神の至福の超越的感覚の境地に没入する。
歓喜の感覚は、世俗的な官能主義とは完全に別のものであり、永遠なる実在に没頭する。
スネーハ、マーナ、プラナーヤ、ラーガ、アヌラーガなどの中間段階の境地は、個の意識が神の意識に没入するマハーバーヴァの最高点へと通じている。
ヴィラハ(別離)の強烈な感情は、マハーバーヴァの前段階である。
ヴリンダーヴァンのゴーピーたち、ガウランガ、そしてジャヤデーヴァは、マドゥラ・ラサ・バクティの実例であり、最高の種類のバクタたちである。
バクタは、これらのバーヴァあるいはラサを実践し、神に達するであろう。
最終的にはバクタは、個の大願・切望を終わらせるマドゥラバーヴァとマハーバーヴァに達する。
◎アヌバーヴァとサートウィカ
アヌバーヴァは、「笑い」「踊り」「歌」によって誘発される。
「笑うこと」「踊ること」「歌うこと」などは、ウドワシュワラ・アヌバーヴァである。
呆然自失などの感覚は、サートウィカ・アヌバーヴァに含まれる。
アヌバーヴァは、「踊り」「歌」「笑い」などのような外的な兆候によって、その目的としている内なる感情を表わすバーヴァである。
クリシュナの存在を悟ることで、あるいはクリシュナと直接的に関わることによって生じる心の状態を、サットヴァという。
このサットヴァから生じる感情が、サートウィカである。
呆然自失状態、発汗、ゾクゾクする感覚、声が詰まる、身震い、肌の色の変化、涙が流れる、そして死んだようになること――これらは、サートウィカの八つの外的な兆候である。
◎別離の分類
別離の分類は――クリシュタ(やせ細る)、ターパ(苦悩)、ラガリヤ(眠れなくなる)、アランバスンヤター(どうしようもない感覚)、アドリティ(落ち着かない)、ジャダタ(呆然自失状態)、ヴィヤーディ(病気になる)、ムールッチター(意識を失う)、ムリティ(死)――である。
別離の状態において、強烈な愛の感情によって生じる二つの感情の状態がある。
それは、別離が原因で自分を制御できなくなることによって生じるモーハナ(放心状態)と、八つのサートウィカ・バーヴァをすべて顕わすマダナ(忘我の狂喜)である。
◎ルダー・バーヴァとアディルダー・バーヴァ
マドゥラ・ラサには、二つの独特な特徴がある。――ルダー(新芽)とアディルダー(完熟)である。
アディルダー・バーヴァには、マダナとモーハナという二種類がある。
マダナにおいては眼の前にクリシュナがおり、モーハナにおいてはクリシュナがおられない。
ルダーは、プレーマの初期にサートウィカ・バーヴァを生じさせ、強めてくれる、一種の強烈な感情であり、それに対してアディルダーは、プレーマの成熟段階の深い感情の境地である。
アディルダー・バーヴァの二つの様相のうち、マダナ(恋愛的陶酔)はすべてのバーヴァを完璧に備えたものであり、ラーダーはそれを体現していた。