yoga school kailas

ジグメ・リンパの生涯(12)

 65歳の時、彼と彼の伴侶であるデパ・プシュ家出身のギャリュム・ドルカルの間に息子が生まれ、ギャルセ・ニンチェ・オーセル(1793-?)と名づけました。

 ジグメ・リンパは、彼に送られた多くの招待を受け入れることができませんでした。しかしながら、ギャンツェを通じて、彼はツァンのテクチョク・チョリン僧院へ行き、ケンポ・オギャン・パルギェンによって率いられている多くの弟子たちに、そして、また、その途中の多くの場所で、教えと伝授を与えました。この僧院はロンチェン・ニンティクの系統を信奉する寺院となりました。ドルジェ・タク僧院では、彼はリクジン・チェンモとその他の者たちに、一連の教えと伝授を与えました。 

 彼はモンゴル国王のチョギャル・ンガワン・ダルギェ(1759-1807)から、祈りのメッセージと布施を受け取りました。また、彼はドドゥプチェンの弟子、そしてシャプカル・ツォクトゥク・ラントル(1781-1851)の教師でもありました。

 その一方、前ゾクチェン・リンポチェとジグメ・リンパの間のやりとりに基づいて、ゾクチェン僧院のラマたちは、彼の息子がゾクチェン・リンポチェ3世のトゥルクの可能性があるかどうかを何度も尋ねてきましたが、ジグメ・リンパは、それについて何の可能性も示しませんでした。ギャルセ自身は自分の過去生を覚えており、幼い頃から「私はディクンに行くつもりです。」と言い続けていました。そののち、サキャ派のティチェンは彼をチョキィ・ニマ(1755-1792)、つまり、ディクンのカギュー派系統の二人の代表者のうちの一人、チョンサン4世のトゥルクと認めました。

 69歳の時、ディクンの信奉者たちによって整えられた大規模で荘厳な儀式とともに、ジグメ・リンパは息子を伴って、息子の即位式のためにディクンへ向かいました。その途中にある様々な土地の人びとにとって、偉大なる成就者である彼を見聞きすることは、貴重な機会でした。しかし、何日も旅し、終わることない宗教的な行いを果たすことは、高齢で病弱な彼を肉体的に消耗させました。まもなく、水と環境の変化のために、彼は深刻な病に陥り、しばらくの間、人々は彼が回復する希望さえ失いました。しかし予期せず彼の弟子がヤマ・ルンの神聖な場所から、カルポ・チクタプと呼ばれているチベットの丸薬を持ってきて飲ませたところ、彼は奇跡的に回復し、若返ったようにさえ見えました。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする