シャーンティデーヴァ
さまざまな仏教の経典や論書の中で、最も好きなものを一つあげるとすれば、私は、シャーンティデーヴァの「ボーディチャリヤーヴァターラ(入菩提行論)」をあげるでしょう。
この論書は私自身の修行においても、仏教理解においても、多大なインパクトを与えてくれました。その内容のすばらしさのみならず、言葉や比喩の美しさも、ミラレパの十万歌とともに、仏教や他の宗教書の中にも類を他に見ることのできない、美しいものだと感じます。
しかしこの論書の日本語訳については、少し不満があります。
現在、この論書の日本語訳および解説がついたものとしては、まず最も古い、金倉さんという人が訳したもの(「悟りへの道」)と、「大乗仏典」シリーズの一つとして中村元博士が解説を加えているものと、それからチベット僧が解説を加えているもの、そしてダライ・ラマ法王が少し解説しているものもあったと思います。
このうち後者三つについては、量的にも、翻訳的にも、解説においても、個人的には少し不満があります。特に訳については、この論書のすばらしさがうまく伝わってこないように感じるのです。
金倉氏の訳したものが一番良いように思うのですが、しかしこれは言葉が古いために普通は読みにくく、またこの論書自体、修行をしていない人には難解かもしれないと思うので、自分で読むにはいいのですが、人にはなかなか薦められません。
ということで、こんなすばらしい経典なのに、なかなか人に伝えられえないというまどろっこしさがあります。
そこで今回、私なりに、少しずつですが、この論書の解説を書いていきたいと思います。
私は学者ではなく修行者ですので、解説はあくまでも修行者としての視点からのものとなります。
訳に関しては、私はサンスクリット語は読めませんので、私が訳すのは不可能ですので、金倉氏と中村氏のものを混ぜたような感じで、私なりに読みやすく的を得たものを書いてみたいと思います。それに対して私が思うところの解説を加えていきたいと思います。
その前にまずは、この著者のシャーンティデーヴァという人について、伝えられているところを少し簡単にまとめてみたいと思います。
彼は西インドのサウラーシュトラという国の王様の息子、すなわち王子様として生まれました。父王の名はカルヤーナヴァルマンといい、王子はシャーンティヴァルマンと名づけられました。
シャーンティヴァルマンは若いころから、マンジュシュリー(文殊菩薩)の成就法を修行し、マンジュシュリーを実際に見神することができたといいます。また、ターラー女神も信仰していたという説もあります。
その後、父王が死に、シャーンティヴァルマンが王位を継がなければならなくなったのですが、夢の中でマンジュシュリーが、王位を継いではならないと告げたため、彼は王城から逃亡し、当事の最大の仏教僧院であったナーランダー僧院(現在のラージギルの近く)に行き、ジャヤデーヴァという師のもとで出家したといいます。
出家後、彼は密かにマンジュシュリーを瞑想し、深い智慧を有していましたが、僧院で学問を学ぶことには全く無頓着でした。しかも毎朝、五人分の食事を食べていたといいます(笑)。このように、実は深い智慧を有していたのですが、外面的には、勉強もせず、ただの大食いの怠け者に見えたので、「ブスク」というあだ名をつけられました。ブスクとは、ただ食べ、歩いて、寝るだけの人、という意味で、つまり怠惰な怠け者という意味です。
この僧院では定期的に順番で、みなの前で経典を暗証する会がありました。ブスクの番が回ってきたとき、僧院長が彼に、「順番が回ってきてもどうせ経典を暗誦しないのだから、もう僧院を出てどこかへ行きなさい」と言いました。しかしブスクは、「私は僧院の何の規則も破っていないのですから、私を追い出すことは正しいことではありません。私はただ学問的才能に恵まれていないだけなのです」と答え、なんとか僧院を追い出されることからは免れました。
しかし次にまたブスクの順番が回ってきたとき、僧達は、今度こそちゃんと準備をするように、とブスクに言いました。ブスクはそれを受けいれ、僧院長は、「もし経典を暗誦できなかったら、追放だぞ」と告げました。
しかしブスクはそれでも、経典の暗記をすることなく、経典暗誦の前夜も、マンジュシュリーのマントラを唱えるだけでした。するとマンジュシュリーが現われ、ブスクに智慧のシッディを授けました。
経典の暗誦会の朝、僧だけではなく、王様や、他の多くの人々も、集会堂に集まりました。これはつまり、全く学のないブスクが、一体どんな間抜けな暗誦をするのだろう、それを見て笑ってやろうという感じで、多くの人が集まったわけですね。まあ、このころはあんまり娯楽もなくてみんな暇だったのかもしれませんね(笑)。
座に着くとブスクは、
「今まで皆がしたのと同じように経典を暗誦しましょうか、それとも今まで誰もしたことがないやり方で経典を説明しましょうか」
と言いました。これを聞いて人々は顔を見合い、笑いました。王は、
「お前は、今まで誰も見たことがないような食べ方と、見たことがない眠り方と、見たことがないぶらつき方を発展させた。だから、今まで誰もしたことがないやり方で、私達にダルマを説いてもらおう」
と皮肉っぽく言いました。
ブスクはそこで、今まで誰も聞いたことがないすばらしい内容である、「ボーディチャリヤーヴァターラ」の説明をし始めたのです。そしてさらにブスクはそのまま、空中に浮かび上がりました。
ナーランダーの五百人の学僧と、王と、他の群衆は、全員がブスクに強い信を持ち、
「あなたは『ブスク(怠惰な怠け者)』ではない。あなたは偉大な師だ」
と、彼を褒めたたえました。
ブスクは、こうして学僧と王たちの高慢を鎮めたため、「平和の神」を意味する「シャーンティデーヴァ」と呼ばれるようになりました。
これが、シャーンティデーヴァが「ボーディチャリヤーヴァターラ」を説くまでのいきさつですね。もちろん、この物語の中にはいろいろ装飾もあるかもしれませんが、まあ、大体このようなことが実際にあったのではないかと思います。
その後、ナーランダーの学僧たちは、シャーンティデーヴァに、僧院長になってくれと頼みましたが、シャーンティデーヴァはそれを辞退し、僧院を去っていきました。
そういえば、チベット仏教カギュ派の開祖、マルパの師匠であるナーローパも、伝記によると、王子として生まれ、その後ナーランダー僧院に出家し、その後に僧院を出たといわれています。マルパのもう一人の師匠であるマイトリーパや、チベット仏教サキャ派と関係があるヴィルーパなども、一度僧院に出家し、その後に僧院を去って、密教行者の道を歩き始めました。他にもそのような話は多いですね。
僧院を去った後のシャーンティデーヴァの消息にもいろいろな伝説がありますが、それは省略しましょう。
その後のシャーンティデーヴァは、顕教の出家修行者的な生き方を放棄し、密教的な修行を修め、いろいろな不思議な力を発揮したともいわれています。