シャーンティ
◎シャーンティ
【本文】
『自己を統御できぬ人には、知性も、深く考える力もなく、そうした人に平安の境地は望むべくもない。平安の境地無くして、どうして真の幸福が得られようか。
人の感覚が対象物を求めて揺れ動くと、心もそれにつられてさ迷うこととなる。ちょうど水の上の小船が、風に吹き流されてしまうように。
故に、武勇の士(アルジュナ)よ! もろもろの感覚を抑制し、それぞれの対象から心を完全に離せる人の覚智(さとり)は、まことにしっかりと安定している。
あらゆる生物にとっての夜に、物欲を捨てた賢者は目覚めており、またあらゆる生物が目覚めている昼は、逆に賢者によって夜とみなされている。』
はい。この辺も繰り返しなので、言わんとしていることはずっと同じことなのですが、ここで平安っていう言葉が出てきますが、これがよく出る「シャーンティ」です。シャーンティっていうのは、単純に世界平和とか、心の何となく平和って意味じゃなくて、悟りによってあらゆる――何ていうかな、本当の意味での整った状態なんだね。つまり、神の意思によって、あるいは宇宙の意思によって、自分の心が整っている状態。これがシャーンティ。その状態を常に持続しなさいと。それを邪魔するのが、日々の感覚的、あるいは様々な現象の経験だと。
だからそういう中で生きながらも、そういうのに全く心を煩わされずに、このシャーンティの境地、あるいは神の心っていうものに、常に心を合わせている人。この人っていうのは賢者だよといってる。さっきも言ったけども、賢者にとっての昼は、いろんな他の生き物にとっては夜であるみたいな考えがあるんだけども、つまり結果的にそうなるんだね。われわれが神の意思に基づいて生きようとしていると、そういう感じになる。だから逆に言うと、世の中の人はどうでもいいと――どうでもいいっていうのも変だけど、人のことはどうでもいいんです。世でこうだから、私はこうでなきゃいけないかなとか、そんなことは関係ない。だから自分が神の意思から外れてないかどうかだけを、心の第一位に置くんだね。自分がどうするべきかっていうことの。