グル・リンポチェ(大聖パドマサンバヴァ)(11)
☆チベットにおけるグル・リンポチェの主要な弟子たち
チベットにおいて「王と25人の家臣たち」として知られるグル・リンポチェの25人の主要な弟子たちには、二通りの解釈があります。その一つは、ユタ・ニンポまたはカルチェン・ペーキ・ワンチュクを除く25人であり、もう一つは、ユタ・ニンポとカルチェン・ペーキ・ワンチュク両方を含めた25人の家臣プラス王という解釈です。ここでは後者に沿って話を進めます。
◎ティソン・デツェン王
ティソン・デツェン王(790-858年)は、ニャティ・ツェンポを始まりとするチベットのチューギェル(法の王)王朝の37代目君主でした。紀元前127年に初代王になったニャティは、インドから来た王子と信じられていました。
ティソン・デツェン王は中国のリー・ルン・チ王の娘であるチンチェン・クンチュ王女とメ・アクツォムチェン王の息子で、13歳の時にチベットの37代目君主として即位しました。彼は強大で賢明な支配者となり、以前のチベット国境を大きく超えて王国を拡大しました。
ティソン・デツェン王はサムイェー僧院を建設してチベットに仏教を確立するため、インドから大乗仏教学者のシャーンタラクシタを招いて式典を挙げました。しかしチベットの反仏教徒の大臣たちや霊による妨害によって計画を実行できなかったため、シャーンタラクシタは預言書を作りました。それに従って、ティソン・デツェン王はその当時インド仏教の修行者で最も強大な者であったグル・パドマサンバヴァをチベットに招きました。こうしてグルの神通力によって妨害は鎮圧され、チベットにおけるすべての霊はダルマに結び付けられました。
サムイェー僧院は五年で完成し、グル・リンポチェやシャーンタラクシタ、ヴィマラミトラ、ヴァイローチャナ、その他の108人の学者たちが、ヒーナヤーナ、マハーヤーナ、ヴァジュラヤーナの数多くのサンスクリット語の経典をチベット語へ翻訳しました。そして各地で教学やスートラとタントラの教えの修行のための施設が建てられました。
グル・リンポチェは、高弟のティソン・デツェン王と25人の家臣たちに、マハーヨーガの8つのマンダラの偉大なサーダナのアビシェーカを授けました。さまざまなイダムのサーダナの修行によって、彼ら全員がシッディを成就しました。
アビシェーカの中で、八つのマンダラのひとつであるマホーッタラ・へールカ(ヴァジュラマハーへールカ)のマンダラの上に、王の献花が落ちました。マンダラの上に投げられた花は、弟子の修行にふさわしいイダムを見つけ出すといわれます。このマホーッタラ・へールカ(ヴァジュラマハーへールカ)のサーダナの修行によって、ティソン・デツェン王は不動の境地を得ました。
ティソン・デツェン王はその権力を使って、中央インドのマガダから、仏陀の遺品をチベットに取り寄せ、建設した多くの寺院にそれらを祭りました。
王は55年(または59年)の生涯を終えた後、ダルマを保持し広める為に、多くの偉大なる学者や成就者やテルトンに転生したといわれています。彼の転生者といわれる人物には、サンギェー・ラマ(1000-1080?年)、ニャン・ニマ・ウーセル (1124-1192年)、グル・チューワン (1212-1270年)、ウギェン・リンパ (1329-1360/7年)、ペマ・ワンギェル (1487-1542年)、タシ・トブギェル (1550-1602年)、そしてダライ・ラマ五世 (1617-1682年)などがおり、またジグメ・リンパ (1730-1798年)とケンツェ・ワンポ (1820-1892年)は、ティソン・デツェン王とヴィマラミトラの転生者といわれています。
ティソン・デツェン王の三人の息子と二人の娘は、グル・リンポチェの偉大な弟子となり、ダルマの系統において重要な人物となりました。しかしその数や名前、息子の序列などの説には相違があります。そのうちのある説では、王の三人の息子のうち年長はムネ・ツェポで、二番目がムルプ・ツェポ、そして最年少がムティク・ツェポとされています。
ティソン・デツェン王が21歳の時、ツェポンサ女王との間にムネ・ツェポ王子が誕生しました。ムネは、グル・リンポチェから授かった教えを修行し、47歳でチベットの38代目君主となりましたが、即位後二年も経たずに死にました。彼は多くの僧院施設の設立に加え、短い即位の間に三度、貧富の差を無くすために富の分配を試みたことで知られています。
ムネ・ツェポの転生者とされる人物には、トゥルク・サンポ・タクパ (14世紀)と、ディクン・リンチェン・プンツォク (1509-1557年)、そしてヨンゲ・ミンギュル・ドルジェ (11628-?年)がいます。
ティソン・デツェン王が22歳の時に、ムルプ・ツェポ、通称ラセ・テンジン・イエシェー・ロプラツァル王子が生まれました。彼はグル・リンポチェと何名かの指導者によってアビシェーカと教えを授かりました。王子はタントラの偉大な学者となり、ヴァジュラキーラのサーダナの修行によって、その偉大な成就者となり、グル・リンポチェに教えの中の【ラマ・ゴンドゥー】を委ねられました。
あるとき王子は事故で大臣の息子を殺してしまったため、軍司令官としてチベットの北部の中国国境に9年間追放され、その後、コンポで暮らしました。そして彼は生涯の最期で、光の身体へと溶解しました。彼の転生者とされる人物には、サンギェー・リンパ (1340-1396年)、シクポ・リンパ(1464-1523年) 、ペマ・ノルブ (1679-1757年)、ドゥールプチェン・ジグメー・ティンレー・ウーセル (1745-1821年)、チョギュル・デチェン・リンパ (1829-1870年)がいます。
ペマサル王女は、8歳で亡くなりました。グル・リンポチェは王女の死体の心臓部分に赤い種字を書き、神通力よって王女を甦らせました。王女が話せるようになると、グル・リンポチェはカンドゥ・ニンティクのアビシェーカを与え、ペマ・ラテルツァルという秘密の名前を与え、カンドゥ・ニンティクの教えが入った宝石箱を彼女の頭の上に乗せて、「将来、あなたはこの教えを発見するだろう。そしてそれは多くの生類に恩恵をもたらすだろう」と言いました。
グル・リンポチェはイェシェー・ツォギャルに、カンドゥ・ニンティクの教えを将来の弟子たちのために隠すよう指示しました。その後、それらの書物は二つの場所に別々に埋蔵されました。精妙に作られた教えはブータン南部のライオン岩に隠され、出家修行者のために深遠に要約されたニンティク・タントラの教えは、タクポ渓谷のタンルン・タモに隠されました。
埋蔵されたそれらの書物は、将来ふさわしいテルトンの手に渡るように、宝の所有者のダーキニーたちと、グル・リンポチェから指示を受けた守護者たちと、マモに委ねられました。
ペマサル王女の転生者とされる人物には、ペマ・ラテルツァル (1291-1319年)、ロンチェン・ラブジャム (1308-1368年)、そしてペマ・リンパ (1450-1521年)、ラツン・ナムカ・ジグメー (1597-?年)がいます。
ティソン・デツェン王が59歳の時、ムティク・ツェポ王子、通称セネーレク・ジンヨンが生まれました。 後に王子は、チベットの39代目君主になりました。彼はグル・リンポチェから教えと伝達を受け、高い境地を成就しました。
彼の転生者とされる人物には、カルマ・チャクメー(1613-1678年)、セチェン・ラブジャム・テンペ・ギャルツェン(1650-1704年)、そしてアパン・テルトン(?-1945年)がいます。