グル・バクティヨーガ 補遺9「グル・クリパー(グルの恩寵)を得る方法」(2)
また、グルは無限の慈悲の大海であり、彼の恩寵は、それに相応しかろうと相応しくなかろうと、資格があろうとなかろうと、常にすべての求道者の上に注がれている、ということが本当だとしたら、われわれはもうすでに、至福に満たされているはずである。
しかし、実際はそうであろうか?
いや、われわれは捕らわれているということに――無智があり、迷妄があり、自らの低次の自然によって、至る所で欺かれているということに実に苛立っているということに気づく。
どこに問題があるのか?
どれが非真実なのだろうか?
上記の意見は両方とも真実であるが、弟子はそれでも実に現世に染まっている。他の何かが、どこかで間違っているはずなのである。
一体、その何かとは何か?
われわれは厚かましくも、聖典が間違っているとは言わない。
それに加えて、グルは慈悲深くなく、われわれに恩寵を降り注いでいない、とも主張しない。
これを熟考すると、真剣に考慮すべきいくつかの要因がわれわれの前に持ちあがってくる。
グル・クリパーは紛れもなく、意識ある存在は言うまでもなく、石さえも無限のサチダーナンダ(絶対の実在、智慧、歓喜)に変えることのできる神の力である。
グルが常に慈悲深いという意見、要素には、間違いなくほんの少しも誇張表現はない。
しかしそれでもグル・クリパーは、授けられも与えられもしない。――しかしそれはまた、受けねばならないものである。
それを受けて、われわれは不死になり、神となるのだ。
寛大な心を持つ布施者は、困窮している人々を訪問し、無条件の施しをなすだろう。
しかし、その困窮者がその素晴らしい機会を利用して、実際にその富を受け取ることがないならば、彼にとってその富や布施は何の役にも立たないだろう。
それゆえに、偉大なる主キリストはこう仰ったのだ。
「求めよ、さらば与えられん。叩けよ、さらば開かれん。尋ねよ、さらば見出さん。」
これは、神の寛大さ、神の恩寵、グル・クリパーが不足しているというのではない。
不足しているのは光だ――しかしそこにはわれわれが乞い、求め、叩かねばならない「法」があり、それを為した後に、われわれをそれを受け取る準備が整うはずである。
これがあれば、グル・クリパーはすべての奇跡となる。――それはわれわれの中に流れ込み、われわれを不死、永遠の光、無限の至福の最高の世界へと引き上げるのだ。