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グルと弟子

「ヴィヴェーカーナンダとの対話」より

グルと弟子
神に捧げる聖糸の起源
二元性の問題
真我が発現するとき

【場所:アランバザール・マト 年:一八九七年五月】

 べンガル暦で一三〇三年一月十九日の日に、スワミジは弟子にイニシエーションを与えることに同意した。朝早く彼はアランバザール・マトに着いた。スワミは弟子を見て冗談で言った。

「おまえは今日『いけにえ』になるんだって?」

 弟子にこのようなことを言ってから、スワミジはにこやかに、そこにいた人たちとアメリカの話をふたたび話しはじめた。その後、霊性の生活を確立するためには、いかに心の底から帰依することか必要か、グルに対してどれだけ確固とした信や強い信仰を継続することが必要か、グルの言葉をどれだけ深く信用することが必要か、彼のために自分の生活を犠牲にすることがどれだけ必要かなどの、意味深い話題となった。その後、スワミジは、弟子にいくつかの質問を投げかけ、彼の決意を試し始めた。

「では、おまえはいつ何時、どんなことでも、私が示す戒律を全力で守りきる覚悟があるのか? もし、私がおまえの成長を願って、ガンガーに飛び込めとか屋根から飛び降りろと言ったとしたら、何のためらいもなく実行することができるか? ああ、しっかりとそのことをよく考えるべきだ。それからでなければ軽はずみに私をグルと受け入れてはいけない。」

 弟子は、この種の全ての間いに対して承諾した。スワミジはそれから続けた。

「本当のグルは、おまえを生と死が限りなく続くマーヤーの世界を超えた境地へと導き、慈悲深く全ての悲しみや魂の病を減ぼす。昔の弟子は薪を持ってグルの住処に行ったものだ。能力を認めれば、グルは、イニシエーションの後に情熱を持ってヴェーダを教え、体と心と言葉を制御し続ける誓いの証としてムンジャという草のつるを三回弟子の腰に巻く。この腰ひもで、弟子は自分の腰布を締めるようになる。後になって、聖糸を身につける習慣が、ムンジャ草の腰ひもにとって替わった。」

 弟子「師よ、教えて下さい。神聖なひもを使う習慣はヴェーダの習慣ではないのですか?」

 スワミジ「ヴェーダの中に、ひもがこのように用いられているという記述はない。現代のスムリティ(経典)の著者であるラグナンダン・ハッターチャーリヤも次のように記している――『この段階で聖なる腰ひもを身につけるべきである』と。
 シャーストラでは、グルの前で行われる最初の浄化の儀式がウバナヤマと呼ばれていた。それなのに、見よ、わが国はなんと悲しい道を歩んできたことか! シャーストラの本当の道から脇道にそれて、この国は、特定の地方を発祥とする慣習、民衆の意見から発生した慣習、女たちが言い出した慣習にのまれてきたのだ! 
 だからこそ、おまえには昔のシャーストラの道を進んでもらいたい。自分の中に信念を持ち、そして、その信念をこの国に吹き込むのだ。ナチケータの信念を自らのハートに育むのだ。すなわち、彼のようにヤマ(死の王)の世界におもむけ。もし真我の秘密を知り、自らの魂を解放し、生と死の神秘について正しい理解にたどりつきたいのであれば、死の入り口まで行かなければならない。そして、そこで真実を理解するのだ。大胆な心で臆することなく目指せ。恐怖に負ければ進歩はない。おまえはすべての恐れを超越しなければならない。だから、今日この時から無恐怖であれ。ただちに自己の解放や他人のために、人生を投げうつのだ。骨と肉という荷物を連ぶことになんの意味があるのか! 神のために真の自己をささげるマントラを授けられたからには、ムニ・ダディチ(賢者の名前)のように、肉と骨に過ぎない肉体を他人のためにささげるのだ。 シャーストラはこう言っている。

『ヴェーダとヴェーダーンダを学び、ブラフマンを知り、恐れを超えた世界に人々を導く者だけが真のグルである。このようなグルが現れたなら、イニシエーションを受けなさい。この場合には迷うことはない。』

 この本来の原則が、今ではどうなっているのか知っているか? 『盲目の人々が盲目の人々導いている』だ!」

 イニシエーションの儀式は、聖堂において滞りなく終了した。この後、スワミジは言った。

「私にグル・ダクシナをするように。」

 弟子は答えた。

「でも、何を差し上げればよいのでしようか。」

 スワミジは答えた。

「食べ物のしまってある部屋から何か持ってきなさい。」

 そこで弟子はそこに走って行き、十~十二個のライチを持って聖堂に戻ってきた。スワミジはこれらを弟子の手から取り、一つずつ全部食べてから言った。

「これでおまえのグル・ダクシナは済んだ。」

 マトのメンバーであるブラフマチャーリ・シュッダーナンダもこのときスワミジからイニシエーションを受けた。それから、スワミジは食事を取り、少し休みに行った。
 昼寝の後、彼は二階のホールに来て座った。弟子はこの機会を見つけて尋ねた。

「師よ、良し悪しの概念はどのようにどこから浮かぶのですか?」

 スワミジ「それは、すべてのものが一つであるということが分からないために生じる考えだ。すべてが一つであることを理解するようになると、良し悪しのような対立するものすべてを生じさせる『自』と『他』の概念が消える。誰それは私とちがう、という考えがおきると、他にもいろいろな違いが見えてくる。しかしすべてのものが一つだとはっきり認識すれば、苦痛も幻想も生じる余地はないのだ。

『唯一無二の世界を悟った者が、どこに苦痛や妄想を見いだすであろうか?』

 罪とは、あらゆる種類の弱さの感覚だと言ってよい。この弱さから、嫉妬や恨みなどが生まれる。したがって、弱さは罪悪だ。自己の内部はいつもまばゆい輝きを放っているにも関わらず、人々は自己の外部に気をとられ、肉と骨でできた見せかけの粋である物質的な体によって注意をさえぎられてしまい、『私、私、私』と言う。これが全ての弱さの根本だ。この習性からのみ、相対的なこの世のものの見方が生じるのだ。絶対的な真理は、この二元性を超えたところに存在している。」

 弟子「それでは、この全ての相対的な経験は真実ではないのですか?」

 スワミジ「『私』という考えが残っている限りはそのとおりだ。そして、『私』が真我であるという理解に到達した瞬間、相対的なこの世界が見せかけだと分かる。人々が罪と呼ぶものは弱さの結果であり、『私は肉体である』という利己的な考えの側である。『私は”それ”そのものである』という真実が心の中で不動のものとなったとき、損得、良し悪しを超越する。シュリー・ラーマクリシュナはよくおっしゃっていた、『「私」が死んだときに全ての問題は消える』と。」

 弟子「師よ、この『私』はとても生命力が強く、なかなか殺すことができません。」

 スワミジ「そのとおりだ。ある意味ではとても難しい。しかしある意味ではとても簡単だ。この『私』はどこに存在するのかね? はじめから存在しないものを、どうやって殺すというのか。人間は単に、催眠術にでもかかっているかのように、自我について誤った認識を持ち続けているだけなのだ。この幻想がわれわれから消え去るとき、全ての夢がなくなり、そして、唯一の真我のみが、至高の神から草の葉の一枚に至るまで、遍在していることに気づく。このことを知り、理解しなければならない。全ての修練と礼拝は、この無智の覆いを取り去るためだけのものなのだ。それができれば、絶対的な叡智の太陽がそれ自身の光で輝いていることが明らかになるだろう。なぜなら、唯一、真我だけが自ら輝きを放ち、自己認識をするものだかである。それ自身でしか経験し得ないことを、どうやって、他の助けを受けて知ることができるのか。ゆえに、シュルティでは次のように述べられている。

『知るべき主体を如何なる手段で知るのか。』

 知るということは、全て理性の助けを得てなされるのだ。しかし、理性は物質的なものである。理性の背後に純粋な真我が存在するからこそ理性は機能する。それでは、どうやってその真我を理性で認識することができるのか。結局、理性も知力も、純粋な真我には到達できないということだけが分かるであろう。それがまさに相対的な智慧の限界だ。そして、理性が活動や機能から解放されたときに真我が発現する。注釈者シャンカラは、この状態を知覚を超越した感覚と言い表わしている。」

 弟子「けれども、師よ、理性自体が『私』です。仮に、理性がなくなってしまったら、『私』を維持できないはすです。」

 スワミジ「そのとおりだ。その時の状態が、本当の自我の性質だ。その時に残る『私』が、遍在的で普遍的な全てのものに内在する真我であるのだ。つぼが壊れてもその中の空間は壊れないので、ガターカーシャ※がマハーカーシャになるようなものだ。取るに足らない身体の中に閉じこめられていると思い込んでいる『私』が大きくひろがって、普遍的な『私』や自己の形態として認識される。ゆえに、理性の有無は、本当の『私』や自己にとってはそれほど重要ではないのだ。おまえはそのうちに私の言うことを理解するだろう。

『時が来れば、自分自身で理解する。』

 シュラヴァナとマナナ(適切に聞き、適切に考える)で進むならば、そのうち完全に理解し、そして、理性を超えて行くだろう。そうすれば、こうした疑問は生じなくなるはすだ。」

 この話を聞きながら、弟子は静かに座っていた。スワミジはゆっくりと続けた。

「この単純な事実を説明するために、これほどまで多くのシャーストラが書かれてきたにもかかわらず、未だに、人間はそれを理解できていない! 銀貨や魅力的な女性の美しさなどのはかない喜びに、一生の貴重な時間をどれだけ浪費していることか! 驚嘆すべきはマハーマーヤーの御力だ! 母よ、ああ、母よ!」

※ガターカーシャとマハーカーシャはヴェーダーンダで用いられる専門用語。つぼの中の空間と無限に広がる空の意味。ヴェーダーンダによれば、二つは同一無一であり、前者はつぼで補助的に区切られているに過ぎないという意味。

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