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クリアーライトのヴィジョンとゾクチェンの修行の秘訣の教え(6)

 この真の心の本性が理解されれば、すべてのものは、「受け入れること」と「拒むこと」を超えたリクパの境地の一味となる。すなわち、無限で透明な本性なる意識の境地は、一切の概念を超えていて、「受け入れること」も「拒むこと」もなく、「希望」も「恐怖」もなく、一般に経験するような「執着」や「嫌悪」もなく、「これがそうだ」や「これはそうではない」といった思考でわれわれを調伏して真理を掴もうとするさまざまな教えや指示をも超越している。ゆえに、心の本性とは、何かを放棄する必要などない、一切の経験を超越したものなのである。

 自ら生じる裸の意識があらわれたとき、その境地は、「生き生きとした鮮やかな至福」でも、「純粋なる透明性」でも、「無思考のサマーディ」などでもない。なぜならそれらは「意識はこれこれのものである」と主張しているようなものだからである。心の本性は、言葉ではとらえられず、知性を使って想像することもできない。それは、澄み切った「自ら生起する意識」として、ヨーギーたちに絶えず鮮やかにピチピチと生じているリクパの智慧の領域である。このように、裸の意識は一切の存在を超えており、その非存在を存在として考えることには限界があるのである。

 ゆえに、事物を真実と受け取ってしまう認識は、心の本性の無変造の境地の中で、自然に分解され消滅する。一切の事物は、この境地の中に消えていくのである。

 「事物を真実と見なす」という足枷から自由な、ありのままの境地は、リクパと不可分の空性である。空性を知性でとらえようとしてどこかを探し回る必要はない。それは完全に完成された空性なのである。

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