クリアーライトのヴィジョンとゾクチェンの修行の秘訣の教え(4)
無為自然なる心のティクレに気付いていない修行者たちは、道として「変造」を使う。このようにして、彼らは本質を切り捨てているのだ。彼らは熱くなって、原初の心を、知的分析という監獄に閉じ込められる。その監獄に閉じ込められながらも、何度も何度も心に混ぜ物をし、「これがそれだ!」と「これはそれではない!」の間を行ったり来たりする。しかし、心に手を出せば出すほど、その度合いに応じて、どんどん本質の真理を理解できなくなる。知性によってでっち上げられた見解と瞑想の道を歩むこととなり、悟りへの階梯を昇っていくことは叶わないであろう。このようにして、彼らは再三再四、観念を作り上げて、本質(ティクレ)の理解をどんどん覆い隠していくのだ。
最初から、法界の空間で縛られている者などいない。要するに、法界の空間で「解放される」などということはありえないのである。同様に、始まりから、心の本性は完全に自由であり、努力して確保した解脱を鼻にかけている者たちは、解脱していない。なぜならば、「解脱をする」などということは存在しないからだ。
意図的に心を変造することで解脱に達しようとしている修行者たちは、自分の吐く糸で自分を包み込んでしまう蚕のように、自らが心から確信している哲学的教義にとらわれてしまい、ガチガチに束縛されている。このようにして、彼らは自らをがんじがらめに縛り付けている。
これらを要約すると、補正や変造されていない「今この瞬間」にあるわれわれの心は、それそのものが原初のリクパ、つまりゾクチェン(完全なる完成)である。それは同様にマハームドラーであり、中観であり、概念を超えたものであり、不生である。名前がどうであれ、それは本質的には心の裸のリクパ(明智)を意味しているのである。その”本性”を認識することが、「見解」である。
以上で第一章を終わる。