カルマの法則、すべては私の心
仏教やヨーガでいうところの「カルマの法則」、つまり自分がなしたことがそのまま自分に返って来る因果の法則について、私がまずよく使う説明は、作用反作用の法則のように、プレーンで何の力も加わっていない宇宙に何かの力を加えた場合、それと同じ力が逆方向、つまり自分自身に返って来るというものだ。
もちろんこれは、本来言葉では表しにくい真実を、ある角度から言語化した説明に過ぎない。
また別の角度からの説明もある。それは、この世はすべて自分の心であるということ、あるいはこの世のすべては一つであるということだ。
これは、私がよく使う夢の例えで表現するとわかりやすいかもしれない。一般的な夢というのは、その入り際は、世界観が固定しておらず、潜在意識のデータから生じるイメージが雑然と展開しているだけだ。
それが徐々にある程度統一された世界観のもとに整えられてくる。しかしこの段階ではまだ、「私」という個別の意識は薄い。その世界全体が自分の心が作り出したイメージなのだから、世界すべてが私なのだ。
そしてその次の段階で、そのイメージの中の一部の登場人物に、「私」というレッテルを張り、その瞬間、それ以外のすべての世界が「他者」として認識される。
しかしどう認識しようが、そこに登場する人物たちも、世界そのものも、すべては一つ、ただ「私の心」が作り出したイメージに過ぎない。
この世界も結局、同様に、究極的に言えば我々の心が作り出した幻影にすぎない。上記の夢の話と全く同じ仕組みだ。
つまり我々が「他者」と認識している人物も、この世界そのものも、すべてただ一つの私の心だということだ。
ということは、我々が「他者」に対して、「世界」に対して為した行為は、すべて自分自身に対して為した行為に他ならないということになる。
つまり「他者に為したことが自分に返って来る」というよりも、「他者に為したと思っていた行為は実は自分自身に対して為していた」ということだ。
この思想においては、慈悲の心の価値もわかりやすい。他者の幸福を願うということは自分の幸福を願うということに他ならないのだから。
慈悲の教えにおいては、自分よりも他者を大事にしなさいという。なぜなら、「自己」と認識している領域よりも「他者」と認識している領域の方が大きいからだ笑。
もしその小さい「自己」を大事にし、他者を否定するなら、その人の幸福は、砂漠の一つの砂粒のように小さいものとなるだろう。
しかしその一粒を顧みず、その他全部を肯定して大事にするならば、大いなる幸せを得るだろう。
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