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アディヤートマ・ラーマーヤナ(29)「パンチャヴァティへ」

第四章 パンチャヴァティへ

◎ジャターユとの出会い

 聖仙アガスティヤに示された道に沿って旅を続けていると、ラーマ一行は、山のように大きく、驚くべき外見をした、年老いた霊鷲ジャターユに出くわした。
 そこでラーマはこう仰った。

「おお、ラクシュマナ、私の弓をとってくれ。私の前に立っているものは、リシたちを食っている悪魔の一人であろう。奴は殺されるべきである。」

 霊鷲の王ジャターユは、ラーマのこの言葉を聞いて恐怖し、こう言った。

「私はあなたによって殺されるべきではありません、おお、ラーマよ! 私は御身の父と近しい友であり、ジャターユという名の鷲でございます。
 御身にお仕えしたいゆえ、私はパンチャヴァティで暮らしましょう。御身とラクシュマナの御二人が森へ狩りに行かれますならば、私はジャナカの娘シーターをお守りいたしましょう。」

 霊鷲のこの言葉を聞くと、ラーマはとめどない愛を溢れさせてこう言った。

「ああ、鷲の王よ! あなたの言葉は称賛に値する。どうか、私の住処からそう遠くないこの森の中に住み、私が望むときにはいつでも私を手伝っておくれ。」

 この言葉を鷲に告げて、彼を抱擁すると、ラグの喜びである偉大なる主ラーマは、ラクシュマナとシーターと共に先へと進んで行った。
 ゴータミ―(ゴーダヴァリー)河の岸に着くと、ラクシュマナはパンチャヴァティという地域の場所に、一行が暮らせるように広々とした小屋を建てたのだった。
 その場所は、ゴーダヴァリーの北方の岸に位置しており、俗世間からは遠く離れ、カダンバ、パナサ、アムラなどの果実を実らす、豊かな木々に囲まれていた。
 シーターを喜ばせながら、ラーマは深い見識を持つラクシュマナと共に、天界の不老不死の者のようにそこで暮らしたのだった。ラクシュマナはすべての面において、ラーマの奉仕に献身した。毎日彼は外に出て、森の根や果物を集めてラーマに施した。夜には、手に弓矢を持って寝ずの番をし、ラーマの住処を守ったのだった。
 彼ら三人は皆、毎日ゴーダヴァリーに沐浴をしに行き、沐浴へ行く途中と沐浴から帰る途中、ラーマとラクシュマナはそれぞれ前と後ろを歩き、シーターはその真ん中を歩いた。
 大喜びで、ラクシュマナは生活に必要な水を持ってきた。このようにして、その三人は大変幸せそうに暮らしていたのだった。

◎ラーマのラクシュマナへの説法

 そんなある日のこと、ラーマが庵で座っていると、ラクシュマナが正しい形式に添って謙遜して彼に近づいてきて、こう懇願した。

「ああ、蓮華の眼をされた御方よ、全智全能な御方よ! 私はあなたから、解脱に至る確かな方法を知りとうございます。どうか、手短にそれを私にお説き示してください。
 ああ、ラグ族の導き手よ! どうか、信仰と世俗の価値観の放棄によって向上されるヴィジュニャーナ(神秘の真理の悟り)と共に、ジュニャーナ(叡智)を私にお授けください。この世に、あなた以外にこの深遠なるテーマを説き明かせる御方はどこにもおりません。」

 ラーマはこうお答えになった。

「ああ、愛する弟よ! 聞きなさい。私は、人を想像の絵空事である迷妄からただちに解放する一切の教義の中で最も深遠なるものをお前に語ろう。
 まず、お前にマーヤーの本性を説明しよう。その次に叡智(ジュニャーナ)に導く段階を述べ、その後に、悟りを伴ったヴィジュニャーナあるいは叡智を、そして至高の真我(パラマートマン)について解き明かそう。
 パラマートマンは、神秘性の熱望者の追い求める対象である。彼を知ることによって、人はバヤ――輪廻で生死の経験を繰り返すことの中に存在する恐怖――から解き放たれる。真実には自己というものは全く存在していない身体と心に関して、人が自我の感覚を不当に感じるところの力によるそれ――それがマーヤーである。この輪廻は、誤りの認識を土台にしているがゆえに、完全にマーヤーの創造物なのだ。
 おお、気高き者よ! マーヤーとは伝統的に二つの様相――ヴィクシェーパ(投影)とアーヴァラナ(覆い隠し)として受け入れられている。その粗雑と微細な形状における客観的宇宙のすべては、マハータットヴァ(すべてを包含する範疇)から無限なる存在(ブラフマン)までのすべてを取り巻きながら、ヴィクシェーパとして知られる力(シャクティ)によって重ね合わせらせている。アーヴァラナ(覆い隠し)として知られるアヴィディヤーのもう一つの様相は、完全に純粋意識の本性を覆い隠し、マーヤー(あるいはそのヴィクシェーパの様相)によって、この多様な宇宙を純粋意識に重ね合わせるための道を開く。区別をするや否や、多様性の世界は、まるで縄を蛇として認識してしまったように、迷妄によって真に存在しないものが見出される。人が絶えず聞き、見、思いだすものの一切――それはすべて非実在であり、夢や想像の内容のようなものだ。身体は輪廻という木の頑丈な根なのだ。
 妻や子供や他の家族たちとの繋がりが確立するのは、身体のせいである。彼らと接触している身体以外に、彼らと自分との関係を突き止めることができるものは他に存在しない。真我は多少なりとも彼らを必要としていないのだ。
 身体と心はいくつかの要因の組み合わせだ。五つの粗雑な元素、五つの微細な元素、我執(アハンカーラ)、知性(ブッディ)、十の感覚、純粋意識、根本自性(ムーラ・プラクリティ)の反映である意識(マナス)――これら一切の組み合わせがクシェートラと呼ばれるものであり、同様に身体として知られるものである。
 ジーヴァは、上記に述べたこの観念とは異なっている。彼は幸不幸から解放された至高の真我(パラマートマン)である。私は次に、ジーヴァについての真理を解明する手段をお前に説こう。
 ジーヴァ(個々なる魂)とパラマートマン(至高の真我)いう言葉は同意語である。それらの間に違いはない。ゆえに、自分自身が身体であるという認識を受け入れてはならない。
 他者への詐欺行為、抑圧、苦痛を与える行為を避けなさい。
 他者からの批判や迫害に、不屈の精神を持って耐えなさい。
 ひねくれることなくありなさい。
 真の師に献身し、身口意をもって彼に奉仕しなさい。
 精神的・肉体的な純潔さを遵守しなさい。
 善行の遂行に忠実であれ。
 身口意を制御するのだ。 
 感覚的対象を切望してはいけない。
 自己主義から自由になりなさい。 
 常に生や老いなどの、輪廻の苦しみを覚えておきなさい。
 息子や妻などに執着してはならない。偏った愛情を彼らに抱いてはならない。
 望むもの、望まないものの経験がやって来ても、平静であれ。
 一切の衆生の本質である私、ラーマに対しての絶え間ない信仰を持ちなさい。
 お前の心を、真理ではない事柄に結び付けてはならない。
 人ゴミから解放された聖地を頼ってはならない。
 世俗的な友に好意を抱いてはならない。
 真我の探究をお前の唯一の冒険とせよ。
 常に心の中で、明智の真理の言葉について考えていなさい。
 これらの戒の実践は、本質なる神の叡智、ジュニャーナへと通じる。これらが欠如すると、その結果は正反対のものとなるであろう。

 ジュニャーナ(完全なる神の叡智)とは、人が『真の私は、ブッディ、プラーナ、アハンカーラ(我執)、マナス、身体とは異なるものだ』という確信を得、そして純粋意識、永遠、純粋さ、覚醒を得るところの叡智である。この確信が絶え間ない認識あるいは現実となるとき、それはヴィジュニャーナと呼ばれる。
 真我はすべてのものを満たす。彼は純粋意識と至福の本質。彼は破滅しない。彼はブッディのような彼の付加条件である執着や嫌悪などから解放されている。彼は(プラクリティとその展開の産物である)一切の性質から自由である。
 意識を伴った心身を授け、自ら自分の本質を立たせておくのは彼である。彼は決して覆い隠されることなく、否認されることのない、二のない一なるもの。真理、意識などは彼の性質である。
 この永遠なる目撃者は、何にも結び付けられずに自己を現わし、智慧によって悟られる。
 聖典と師の指示を通じて、個我と真我との合一の理解は、大望を抱く者の心に現れ始め、根本無明(ムーラ・アヴィディヤー)が、その因と果と共に真我の中に溶解する。その境地をムクティ(解脱)というのだ。
 おお、ラグ族の子孫よ! 私は私の真の本性を、その叡智とその悟りと共にお前に説き明かした。この束縛と解脱に関する一切の教義は二次的なものである(それらは実在ではなく、真我は永遠に自由だから)。 
 しかしこの真我の至高なる真理は、私に対する信仰のない人々には決して理解されることはない。夜の暗闇では、眼を持つ者でさえ、その足跡を見ることはできない。光を与えられたときにはじめて、彼らはそれを見ることができるのだ。まさにそのように、私に信仰心を持つ者たちに、真我は光り輝くのだ。ゆえに私は、私への信仰心を生じさせる要因のいくつかをお前に説こう。
 私の帰依者との交わり、愛を込めた私への奉仕、私の帰依者への絶え間ない奉仕、エーカダシーなどの誓いの遵守、私の美徳を聞くこと、読むこと、解説することに強い関心を持つこと、私の儀式的な礼拝の遵守、私の御名と私の特質の賛美の復唱、これらの戒に絶えず献身する者たちは、私に対する揺るぎない信仰を得る。これ以外に得るべきものが何があろう?
 ゆえに、私への信仰を授かった者は叡智、無執着、そして悟りを速やかに得る。それによって彼はムクティ(解脱)を得るのだ。
 お前の質問に従って、私はこれら一切の真理をお前に説き明かした。これらの教えを記憶し、実践する者は、ムクティを得ることができよう。
 お前はこれらの教えを決して、私への信仰の痕跡のない者たちに無理やりに授けてはならず、また私の信者には、自分の傍に呼んでまでも授けなければならない。
 信と献身を持ってこれを日々学ぶ者たちは誰でも、無智の深い暗闇を打ち砕き、解脱を得ることに成功するだろう。私に献身し、常に私と交わり、ハートを純粋にして心を平静にし、私への奉仕を喜びとし、純粋であるべき自己の本性を理解し、執着を持たず、霊性の道に常に精進している一切の者たち――聖者への奉仕や聖なる信念以外の何ものにも心を向けないそのような人にとって、解脱の成就はすでに手の中にある。彼らは、いつでもどこでも私を現前に見ることができるのだ。この成就を得るためには、他に方法はない。」

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